「人種とスポーツ」

『人種とスポーツ』(川島浩平・中公新書)を読んだ。私なりに自分の興味とリンクするキーワードをいくつか見つけることができた。

人種とスポーツ - 黒人は本当に「速く」「強い」のか (中公新書)

人種とスポーツ - 黒人は本当に「速く」「強い」のか (中公新書)

 拙著『帝国化するメジャーリーグ』(明石書店)が参考文献に入っている。素直にうれしい!

 150年ほど前から現代にいたるまでの米国の黒人選手とスポーツのかかわりと、
彼らに対する評価などについてたどり、「黒人選手は身体的に優れている」と言われるようになったのはなぜなのか、が書かれている。

 当然のことだけれども、黒人選手が身体的に優れていると感じるとしても、すべての黒人が運動能力にたけているわけではない
 
 運動能力に傑出した個人や集団などの出現には次の4つの要素が混ざり合っているとしている。
①所属集団や人種などのアイデンティティ、
②時間、時代的文脈
③チリ・空間的文脈
④現象が発生する契機となる状況 

 第Ⅵ章には、ケニア国内地区別、世界レベルのアスリート産出指数が掲載されていて、いかに特定の地域から選手が輩出されているかがよく分かる。黒人であれば速いわけではなく、ケニア人だから速いわけでもない。

 ここから私の興味へ。

 この本には

 

1930年代に優れた黒人アスリートを輩出した5つの競技種目、バスケットボール、フットボール、ベースボール、陸上、ボクシングのうち、ボクシング以外はすべて義務教育で導入された競技であり、ボクシングは都市の貧困階層に広く浸透した競技であった。このことは、幼少期と学童期における環境の整備と機会の提供が、アスリートとしての成長と成功にいかに重要であったかを物語っている。

 と書かれている。

 今、私は米国の郊外に住んでいて、2人の子どもがスポーツをしている。

 米国で競技能力向上を目指してスポーツをやりはじめると、お金と保護者の労力が要求されるというのが今の私の実感。

 種目によっては、お金を使わないとうまくならない仕組みが出来上がっている。
 
 子どものスポーツにかかる費用は、我が家の家計でかなり大きな割合を占めている。

 用具代、トーナメント代、レッスン代に加え、小学生の野球やアイスホッケーなどでは保護者が指導役やチーム運営の世話係を務める。自分の仕事をやりくりして、練習場、試合会場への送迎もしなければいけない。

 以前、読んだ雑誌には、子どもが2つのスポーツを掛け持ちしていて、年間におよそ1万ドル(約80万円)がかかっているという保護者の話が掲載されていた。そんなものだろうな と思った。

 環境の整備と機会の提供で黒人選手が表舞台に出てきたのとは逆に、現在は人種に関係なく、スポーツにお金をつぎ込む経済的余裕がないゆえに、参入の機会を奪われている人たちがいるのではないかと考えている。

 この本によると、1930年代の米国では体育が黒人選手のスポーツの導入に一役買ったという。

 しかし、今の小学校の体育では身体技術を教えたり、習得するところまではいかず、フィットネスに偏っているように見受ける。

 米国の子どもたちの肥満率が上がっているので、義務教育のなかで健康のために体を動かすことを教えるのは重要視されているからだ。

 人種にかぎらず、保護者の収入が少ない家では、スポーツの導入部分で不利な状況に陥っているのではないか。

 1年ほど前に、高校スポーツについて取材したことがあったが、比較的裕福なアッパーミドル層が住む高校のアスレテイックディレクターも「高校スポーツしている子どもの人数がやや減ってきているけれども、お金がかかることも理由のひとつだと思う」と話していた。

 導入部分のところまでくれば、何万人かに一人の能力のある子どもは、有名校などにリクルートされ、奨学金も得て、経験のある指導者から指導を受けることもできる。

 しかし、スポーツにお金をつぎ込むことのできない家庭の子どもたちの、全体的な運動能力を引き上げるのは難しいのではないかと思う。

 スポーツは貧困をなくすのに役立つとしている主張もある。スポーツ選手になることで、貧しさから脱出したいといと考える子どもが多いことはよく知られている。

 貧困層の住民が多いデトロイトでは、いくつかのNPOが子どもがスポーツする機会を持てるようプログラムを提供している。

 しかし、プロや優秀な選手の育成というよりも、スポーツをすることで、貧困層の子どもたちがドラッグや犯罪に巻き込まれるのを避けることを目的としているという。

 一度、彼らのバレーボールの大会を観戦した。ほぼ全員が黒人の子どもたち。お世辞にも「うまい!」というレベルではなかった。

 ある程度経済力のある家庭の子どもたちが、指導者についてレッスンを受けている洗練された身のこなしを習得する様子と比較して、明らかに練習する機会が少ないのだろうなと感じた。
 

 以前にブログに書いた肥満の記事。
http://d.hatena.ne.jp/kiyoko26/20111229

 スポーツをする機会が持てないことは、被差別の記号としての肥満にもつながっているように思う。