選ぶ権利 もしも、保護者がアホな私である場合(ドリフのコント風)。

はだしのゲン」の閲覧制限がネットで話題になっています。

学校で一斉にこどもたちに見せるというのとは、違うもののよう。

ただ、読む権利、読まない権利でちょっと個人的に気になっていることがあるので、メモしておきます。

うちの子どもたちは米国中西部で、自宅最寄りの公立校に通っています。

遠足、社会見学、学校から近所の図書館見学 こういったことは数週間前に保護者あてに書類が配られ、保護者が子供を遠足や見学に行かせるかどうか判断して、子どもが行く場合、行かない場合とも署名をします。家庭の方針や宗教上の問題などから、こういった行事に参加しなくてもかまいません。居残り組になった場合でも、学校がその子ども(子どもたち)のためにカリキュラムを用意してくれます。

エイズや性教育に関する教育でも同様です。

事前に保護者に書類が配布され、教育を受けるかどうか、選択する権利があります。

映像の場合は、事前に保護者向けに公開してくれるものもあります。

選ぶ権利があるというのはすばらしいことだと思います。当たり前のことですが、子どもはひとりひとり違いますし、イヤな場合は参加しなくてもよいというのは、大切なことだとも思います。お上から、公的なものから強制的に何かをさせられることがないという保障は、いろいろなときに支えにもなります。ムリやり何かをさせられることがあってはいけない。選択できるということは必要だし、選択できるということは人の心の大きな支えになると思います。

ただ、個人的にちょっとだけ困っていることがあります。それは私がアホだということです。

判断材料を揃えようにもよくわかりませんし、年上の子どもを持つ親御さんから様子を聞いたり、3分ほど迷った後で、だいたいエイヤ!で参加する、見るの方にマルをつけて、署名をして提出しています。子どもが行事に参加するか、教育を受けるかということを保護者が判断するというのは、当然のことながらそれなりの心的エネルギーとか知識とか、いろいろなものが必要になってくると思います。

逆に言えば、私みたいによく分からないまま、エネルギーも知識も欠けたままエイヤ!で選んでいると「保護者が選択したのだから」という自己責任のもと、簡単にいろんなものに丸め込まれる危険もあるかもしれません。

あと、もうひとつ気になってるのは、親として、子どもといっしょに暮しているだけで、悪くも悪くも私のアホさ生活ぶりが子どもに伝わっていくことです。

私が子どもの教育に関して「選択する権利」を行使することによって、アホな価値観みたいなのが濃縮されて伝わっていたら…。これは、ちょっと悲観的に心配しすぎてると自分でも思うのですが。