たとえ補欠選手のまま終わっても、「見てきた」ことは無駄にはならない

 それでも試合に出場できない補欠選手であっても。

 平尾さんがミシマガジンに書かれている連載の第11回「見る」のも大事な練習だ。というこの文章を読んだ。

 http://www.mishimaga.com/chikakute/011.html

 いや~これを読んだだけで、感想文(自分勝手なもので、平尾さんにはご迷惑だろうけども)を10本くらい書けそうな気がした。いつも私が思い悩んでいることのストライクゾーンのど真ん中だったから。

 この文章の真ん中あたりに、他の人のプレー、試合をよく見る重要性が書かれている。ベンチに入れない控え選手にとっては、儀礼的に応援することでなく、よく見ることが大切だと。以下引用

 そもそもベンチに入れないのはまだ下級生だからという理由か、あるいは実力的に劣るからである。彼らが試合に出場するためには速やかにルールや慣習を憶えなければならず、また競技力を向上させなければならない。ならば、応援に気をとられるよりも目の前で行なわれている試合を目を皿にして見た方がよいのではないか。声を出さなければ怒鳴られるような雰囲気の中で試合を見るのではなく、先輩やコーチからアドバイスをもらいながら「見る」ほうが、ルールや慣習の熟達および競技力の向上につながるだろう。 

  その通りだと思う。

 ただ、学校の部活であれ、クラブチームであれ、チームが強かったり、レギュラー選手と控え選手に身体や競技能力の差があったり、身体能力に恵まれずに生まれてきたなどの理由で、熱心に練習もし、しっかりと試合や他の人のプレーを見ても、どうしても試合に出られない、スタメンに入れないということがあるかもしれない。

 それでも「見る」ことを投げ出さなくてもいいと思う。

 スポーツ界には「試合を見る」「他の人のプレーを見る」という能力によって、トップで活躍している人がいる。

 たとえば、米大リーグ、デトロイトタイガースのジム・リーランド監督。同監督は大リーグでは選手としてプレーしたことはない。高校卒業後、タイガースと契約したが、マイナーリーグのルーキー、AAでも2割台前半の打率しか残していない。マイナーでの7シーズンの通算本塁打数は4本、打点53というものだ。25歳のときには、マイナーで選手兼コーチとなり、27歳だった1972年にはマイナーの下層クラスのチームの監督になった。マイナーリーガーでも選手生活を続けるのは難しかった。

 監督は「試合を見て」「選手のプレーを見て」采配するのが仕事だ。

 選手としては全く成功しなかったリーランドだけれども、マイナーで指揮官として下積みしたあと、大リーグでコーチの職を得た。監督としてはパイレーツとマーリンズでワールドシリーズ優勝を果たした名監督だ。(苦労話をウリにするというのとは、最も遠い人物のひとりだと、私は思っているけども)

 ただし、野球というゲームをよく知っていることと、見る能力だけでは、メジャーリーガーを束ねる監督として不十分。私がリーランド監督に取材したときには、「他のビジネスとも同じだろうけども、人との接し方、選手とどのように接したらよいかということを学んだ」とは話していた。

 この他、選手を探してくるスカウトや、チームを編成するゼネラルマネジャーなどのフロントの仕事、選手のプレーや動きを見ながら体の状態を把握するトレーナーなど「見る能力」を軸に活躍している人もいる。スポーツ報道に携わる人にも必要なことだ。(この一文は、私自身のことは全く棚に上げて書きました。どの口でそんなこと言うか!という突っ込みはごもっとも。スイマセン)

 今、現役選手としてプレーしている人たちは、将来のことを考えて「見る」必要など全くないと思う。万年補欠選手が、みんな、リーランド監督のようになれるわけでもない。

 ただ、それでも試合に出られないまま、いつも試合を「見ていただけ」で学生生活や選手生活を終えてしまっても、何等かの形でスポーツや身体を動かすことに関わるとき、脳内で味わったプレーは無駄にはならないのではないかと思う。