評価されるためにプレーするとき

平尾剛さんの『近くて遠いこの身体』(ミシマ社)を読んでいます。

この本の序章に

「運動」は緊張しながら行うものではないし、評価の目に晒されながら行うものでもない。幼きころのようにただ純粋な好奇心のもとに行うのが理想的だ

と書かれています。

私は初めて評価される目を感じて運動した日のことをよく覚えています。

もともと運動が好きで中学・高校とハンドボールをしていた私は、体育学科のある大学を受験しました。二次試験は実技。他の受験者をビビらせなければいけないと思い、大阪府の代表として海外遠征したときにいただいたOSAKAと日の丸のついたエナメルバッグを持参。

(このエナメルバッグの話は『近くて遠いこの身体』にも出てきて、えっ!日本代表選手とこんなところに共通点が!!とうれしくなったため、書いてみました。私はこれ以外に自慢できるネタなし)

 試験の日は「うまく見えるように」と意識して、ステップ、フェイントなどを少し大げさにやりました。

 試験の結果は合格。あの悲惨なセンター試験の自己採点結果から考えて、実技試験によって大学に入れたのだと思います。ただし、ラッキ-と思うのと同時に後ろめたさがありました。「自分はとても不器用で、本当はうまくないのにうまいように見せてしまった」と。

 今、私の子どもたちが米国でスポーツをしています。

 6、7歳ごろからレクリエーションチームと競技チームに分かれます。競技チームに入るためにはトライアウトをパスしないといけません。小学校低学年から試合ではなく、トライアウトの場で評価されるためにプレ-して見せなければいけません。親になった私は、子どもの内側からの感覚を外側からの評価の目から守ってやりたいと思うようになりました。

 そんなことを考えているはずなのに、子どもの試合や練習を見ている私自身が知らず知らずのうちに子どもを誰かと比べたり、評価したりしまいます。(学力テストと違い、スポーツの場では他の同年代との比較もしやすい)

 子どもの試合を見ていると力が入りますし、子どもがミスすると、横山やすし的おっさんが降臨してきて、「怒るで、しかし!」と頭の中で叫びます。

 なんとかしたいなあ。けれども、「いいプレーを見つけてほめる」というのも私とうちの子どもの関係ではちょっと違うように思いましたし、「どーせ、プロになるわけじゃないから、うちの子はヘタでもいいのよ」というあきらめも、子どもに失礼な気が。

 そこで、子どもたちの試合を観戦するときに、この『近くて遠いこの身体』の第4章にある「「見る」のも大事な練習だ」を自分なりに取り入れてみました。

  私は子どもたちがやっているアイスホッケーは全くできませんから、彼らを熟達者としてとらえることもできるわけです。

 「ここにいる私」から意識が離れ、「そこにいる熟達者」に同化して、身の丈を超えたプレーができる世界を先取りし、それを仮想的に生きること。

  試合の場面ごとにどういうスティックハンドリングやスケーティング技術を使っているのかをよく見るようにして同化を試みる。プレーしている子どもの感覚が感じられるように自分のチャンネルをあわせるように試みる。これは私にとっては、親が子供に熱があるのかどうかみる、お腹のどのあたりが痛いのか聞いてみるという作業に近いものでした。

 なぜか、子どものミスにイライラしなくなりました。

 それにミラーニューロンが活性化したのか、最近では「今からがんばったらNFL選手になれるような気がしてきた」という噴飯ものの感覚さえ持つようになりました。(ここだけの話ですけど、子どもが学校に行っている間にひみつ練習もしてますねん)

 これからは子どもや子どものチームメートにコツやカンを言葉にして説明してもらおうと思っています。そこから楽しい話が始まるような予感がしています。

 そうこうしているうちに、大学のときに感じた後ろめたさからも完全に解放されていることにも気づきました。すっとした~