なぜ、人はスポーツ観戦をするのか。お金を払ってでも。

 私は大学を卒業してから、スポーツ報道に携わってきた。スポーツをすることも、見ることも、好きだ。 

 記者席から、満員の観客席とフィールド上の選手たちを眺めていると、異次元にトリップすることがある。数万の人たちが、フィールド上の数人、十数人の選手の一挙手一投足に注目し、熱狂している様子を、とても不思議なことのように感じるのだ。何万人もの人を、なぜ、これほど楽しませることができるのかと。

 確かにスポーツ観戦はドキドキとワクワクにあふれて、おもしろい。だから、万人単位の大観衆が立ち上がり、喜び、興奮するのは当たり前のことなのだと思う。 

 しかし、選手は自分の家族でも、親しい友人でもない。世界トップ、国内トップのパフォーマンスができる極めて優れた人たちだが、いわば「よそのおじさん、よそのお兄さん」「よそのおばさん、よそのお姉さん」たちだ。それでも彼、彼女らの動きを見るために、高い入場券を競ってでも買い求めるのは、なぜなのだろうか。よそのお姉さんである選手が金メダルを取っても、よそのおじさんである選手がサヨナラホームランを打っても、私やみなさんの給料までが増えるわけではないのに。

  試合開始前には待ちきれない気分でそわそわし、手に汗握って観戦し、ひいきのチームが勝てば仲間と祝いたくなる。なぜなのか。

 その疑問を、私なりに考えてみた。

 1,ヒトの脳にはミラーニューロンというものがあり、他人の動きを見ているだけでも、自分が動いているかのように感じられること。選手のパフォーマンスを見て、あたかも自分がやっているかのような快を味わえるのかもしれない。   

2,恐らくミラーニューロンとも関係しているのだろうけども、スポーツを見ているだけでも心拍数が上がり、男性ホルモンのテストステロンの分泌が高まる。スポーツ観戦するとワクワクする感覚が味わえる。

3,1や2と関連して、特定のチームや選手と自己を同一化することができる。スポーツとアイデンティティ。

4,3と関連して、応援している特定チームや選手の勝利、成功によって、ファンである自分自身も勝者になった気分を味わうことができる。ファンである自分自身も周囲から好評価を得ることにつながる。

5,特定のチームや選手を応援することによって、同じチームや選手を応援する他の人たちと一体感を得ることができる。

 1から5を見ていけば、スポーツ観戦は、見ているだけでも、あたかも自分がやっているかのように感じることができ、ワクワクし、自尊心を満たし、他の人との一体感をできる素晴らしいものだと言える。応援しているチームや選手に共感することができ、自分の家族でも友人でもないトップ選手のパフォーマンスを見るために、人はお金を払う。

(プロスポーツの経営者は、観客がミラーニューロンを発火させ、テストステロン値を増加させ、スポーツチームへ同一化してくれるように工夫している。知らない人がやっているプレーを、自分の好きな選手が自分たちのためにプレーしてくれているとファンが感じてくれるように工夫しているはずだ)

  ただし、応援しているチームや選手がいつも勝つとは限らない。ゲームは、戦力や勝敗のチャンスが拮抗しているからおもしろい。けれども、ファンの中には、筋書きのないドラマよりも、常に勝つこと、常に楽しませてくれることを望んでいる人もいるだろう。

  しかし、遠く離れた選手たちのパフォーマンスを観客たちはコントロールできない。せいぜい、野次を飛ばすか、ツイッターやフェイスブックで批判するか、選手やチームを叩く論調の記事を読んでウサを晴らすくらいのことだ。

  さて、ここから子供のスポーツへと話をスライドさせる。米国に住んでいる私は、「これは、子供のスポーツであって、プロのスポーツではありません」という言葉をよく聞く。子供のスポーツに力を入れ過ぎる親を戒める文言だ。プロスポーツを観戦するときのように勝敗にこだわったり、ミスを罵ったりしてはだめだということなのだろう。

  しかし、私にはこの文言の効果はまるでない。なぜなら、ひいきのプロスポーツの試合を見て、チームや選手のパフォーマンスに腹を立てたことや勝敗にこだわったことは、ほとんどないからだ。スポーツ報道を仕事にしていることもあり、少なくとも大人になってからは一度もない。プロスポーツを観戦して、野次ったこと、罵ったことは、これまでの人生で一度もない。

  それは私がプロチームや選手に対してあまり思い入れがないからだろう。前述した3番とは逆で、チームや選手の成功と、私の生活は全くリンクしていないし、させてもいない。(そりゃ、私だって血の通っている人間だから、取材している選手が活躍すれば、心のなかでああ良かったなと思う。でも、同一化はしていない。選手と私の間には明らかな線が引かれている感じがする)。

  ところが、子供の試合の観戦となると、まるで話が違うのだ。私の場合はプロスポーツや国際大会を観戦するときのほうが、勝敗やミスに全くこだわらず、純粋に試合を楽しむことができる。それなのに、子供の試合となると、接戦になると、我が子のミスのせいで負けることはないかとハラハラしたり、普段の力を出せていない試合があるとイライラしたり、ケガをしていないか心配ばかりしている。

 勝敗にこだわったことはないが、プロや国際大会を見るときの5倍くらい、あたかも自分自身がやっているかのように感じる。それはプレーする人が「よその人」ではなく「自分の子」であり、私が子供と同一化しているからだろう。

  ちなみに私の夫で、子供の父親は、私とはイライラするポイントが違うそうだ。我が子の好プレーにチームメートがうまく対応できなかったときに、フラストレーションを感じるという。

  告白すると、私は子供のスポーツを見るときには、筋書きのないドラマは求めていない。私が思い描いたようなプレーをしてくれることを求めている。私がイメージしたような動きを子供がしてくれて、それを見ることが、私の快なのである。子供が試合に没頭して、好プレーする姿を求めているのだ。

  熱狂的な観客が、トップ選手のミスに対してできるのは、せいぜい遠く離れたところから、野次ることやブーイングすることぐらいだと書いた。しかし、子供のスポーツでは、私の思い描いたプレーをしてくれない選手=子供に対し、「なぜ、言ったように動けないのか」と罵ることもできるのだ。しかも、密室で。

  なぜ、私は自分が思い描いたプレーを子供に求めてしまうのか。それは、また今度にします。