公教育と子どものスポーツ
昨日、アメリカでスポーツをしていると、やたら「楽しむ」という言葉を耳にするという話を書きました。
しかし、その一方で、アメリカでも子どもの組織だったスポーツでは「人格形成」という目標を掲げているところが多いようです。
米国のベースボールと、日本の野球の違いのひとつに、その発生や定着の仕方に違いがあると、ずいぶん前にどこかで読みました。
参考文献が今、見当たらないので、もしかしたら不正確かもしれませんが、ベースボールは、大人たちが親睦や体力強化のためにクラブチームを作っていたものが始まり。要するに大人の「娯楽」「楽しみ」として始まったのです。
日本の野球は、米国から帰国した日本人によって伝えられたことと、米国人教師が学生に教えたのが始まり。そのため「教育」色が出たというような内容だったと思います。
しかし、子どものスポーツに限っては、アメリカでも、昔から、教育と深い関係があるようです。
「アメリカスポーツと社会」によると、アメリカ南北戦争のころに、工業が発達し、それに伴い都市化がすすみ、都市化によって失われた家庭内のしつけを補うものとして、組織だった子どものスポーツが始まったそうです。
以下引用
学校と同様、公園は都市化に伴い弱められてきた家庭生活におけるしつけの代わりをさせる手段とみなされた。最初私的な、統一性のない自発的な努力によっていた遊びの機会は、次第に種々の公的機関にゆだねられ、より多く青少年に提供された。
1890年から1910年に、市や州は、どこにもレクリエーションプログラムを組織し、公園や運動場を作り、プログラムの指導や私設を管理する指導者を採用した。
引用終わり
私のまわりを見渡す限り、百年前に生まれた「スポーツを通じて人格を形成する」というスローガンは今もアメリカで健在です。たぶん、日本でもそうではないでしょうか。
どんなスポーツでもルールを尊重しないことには成り立ちません。しかし、スポーツさえしていれば、自ずから人格が形成されるという効能を、スポーツそのものは持ち合わせていないと思います。
仮にスポーツに人格を形成する力があるとすれば、連日、スポーツをしているプロ選手の多くはものすごく優れた人格者になるはずです。実際には、そういう選手もいますが、そうでない選手もいます。
だから、スポーツに人格形成を求めるときには、いかにスポーツを運営していくか指導者や大人次第だと思います。
そのときは、瞬時のプレーには関係ない、学校で叩き込まれるような「指導者の指示に従うこと」や「まじめに練習に取り組む」など、現代社会を生きるための価値観とは無縁ではいられません。
学校では目立たない子どもが、スポーツをするといきいきしているということはあると思います。
でも、指示に従うのが難しいタイプや消極的な子どもにとっては、組織だったスポーツの場も、あまり居心地のよいものではないと思われます。
どうして、日本でもアメリカでも、少年スポーツと人格形成は結びつきやすいんでしょうか。
子どもに忙しく体を動かさせて、疲れさせて、危ういところから遠ざけるという効果は少しはあると思いますが…。