勉強ができること、スポーツができること

なぜ、子どものスポーツに親が熱狂するのか。NO.3か4?

 4月28日の親のフーリガン化を防ぐというタイトルのところで、なぜ、子どものスポーツに親が熱狂するのかというのを書きました。

 もともとスポーツは「ファン」を興奮させる性質があります。選手に同化する作用もあります。

 ひいきチームや自分の国の代表チームの試合を見るときに、ファンは喜んだり、悔しがったり、スタジアムにいると手をたたいたり、大声出したり、たまにジャンプしてみたりと。

 わが子が目の前で競技スポーツをしていたら、なおさらこの興奮や同化する作用は強くなると思われます。

 ここまでは以前にも書いてきたことです。

 親が自分の所有物として子どもを見てしまうと(多くの親には、わずかであってもそういった気持ちはあると思います)、子どもが試合や大会で活躍すると、なんとなく自慢できるような気持ちになったり、その逆にふがいない姿だと、自分までちょっと情けなくなったり。

 学校の勉強がよく出来る子どもをの場合、「勉強がよく出来る」ということは、スポーツのようにすんなり表には出てきません。

 学力テストの点数はふつう公表されませんし、通知表だって回覧板のようにみんなで回し見る種類のものではありません。

 難関校に合格するとか、模試で目立った成績を挙げるとか、同じクラス内でなんとなくうわさになっているとか、そういった機会でしか、勉強ができることはあらわれてきません。

 しかし、体育の授業やスポーツの試合は、見方を変えれば、テストの途中経過や成績がその場に居合わせた全ての人に分かってしまうものなのです。

 子どもの側に立てば「出来ないことが、あからさまに、みんなの前にさらされる」活動でもあることから、体育嫌い、スポーツ嫌いにもつながると思います。

 スポーツができれば、校内のヒーローになれるという図式もできあがります。

 親の側からすれば、わが子がスポーツに秀でている場合、自分から宣伝しなくても、その場に居合わせた人に対しては「出来る子の親」でいられるのです。

 そのためか、観客席には謙虚過ぎる出来る子の親が発生したり、自虐的な出来ない子の親が出てきたり。お互いの体面を保つ、場を維持するため行為がなされています。
 いつだったか冬季オリンピックの米国内放送で洗濯洗剤のCMがありました。オリンピック選手の母親である喜びを表現した内容でした。

 子どものスポーツを見るとき、親である喜びが、自慢できる喜びに摩り替わっていないかどうか。これは私自身に強く問いかける言葉でもあります。