日本の高校野球とリトルリーグ

 私の大学時代の卒論は「甲子園の高校球児はなぜ、最終回二死からヘッドスライディングするのか」というテーマだった。

 「高校生らしい野球をしめくくるための“演技”である」という仮説だった。

 当時、よく読んでいた山際淳司の本にも、うろ覚えだけど、

 守備練習をしている高校生選手たちは飛び込むようにしてボールを捕球していて、わざとユニホームを汚すような捕球の仕方をしているのではないか

 というような内容の一文があったように思う。

 教授からはゴッフマンを読むようにと言われた。

 高校生本人たちを調べるのではなく、「高校生らしい野球」を形作っている報道の内容を調査することになった。

 ちょうど、甲子園では星陵・松井の敬遠四球があり、野球と高校生らしさについて、考えるように先生から指導された。

 あれから20年近くたち、昔読んだはずのゴッフマンもすっかり、忘れているのだけれど、自分の子どもがスポーツを始めるようになってから、昔の拙い卒論をよく思い出すようになった。

 試合は、その場において勝者と敗者を作る。

 しかし、教育という大義名分を含む甲子園の高校野球では惨めな敗者を避ける。「負けても、高校生として劣っているわけではない」、「負けても頑張った」というイメージが必要だ。その逆で試合には勝っても、敬遠策が問題視されたり。

 高校野球のテレビ中継の実況は9回になると「得点差はありますが、粘ります」とか、負けている方が初出場だったりすると「初出場の●●高校」といった口調が目立つようになる。

 これは高校野球の体面を守るために必要なもので、儀礼的に高校野球の社会秩序を回復させるはたらきをする。

 私の子どもはアメリカでレクリエーションとして野球をしている。

 私は日本的なものがいっぱいつまっているような高校野球(猛練習、連帯責任、短髪などの外見)と、アメリカのリトルリーグ(気楽な遊び、投手の球数制限)に対して、正反対に近いイメージを持っていたのだが、「言葉」に関しては、日本の高校野球のテレビ中継と似ているところが多いようなのだ。

 野球は集団スポーツでありながら、1対1や間合いが多い競技だ。そのため、選手同士や監督と選手、ときにはファンとの間にも対話がある。

 アメリカ人の親やコーチは三振の子どもに言う。「スイングはよかった」

 相手の好守と好送球でアウトになってしまった子に言う。「頑張ってベースまで走った」

 なんとかボールは捕球したのだけれど、送球が間に合わず。「よく止めた」。

 (プロではこんな言葉は全然使わないとは思わないが、本当に「よく止めた」場合にだけ、そういう言葉は使われるのであって、儀礼的に使われることは少ないだろう

 昨日も書いたけど、スポーツの場合は成功も失敗も人の目にさらされる。子どもの対面を守るための言葉であふれているのである。

 そのときの親やコーチの表情がまた興味深く、何か言いたいのをこらえて、体面を守る言葉を儀礼的に搾り出しているかのようにも見える。

 この言葉を監督や親が言うか、テレビのアナウンサーがいうか、そのことの違いはあるだろうけど、

 プロ選手ではない、子どもたちがスポーツをしているとき、そのプレーを評価する言葉は、日米で、たぶん世界を通して、似ているのではないかと思った。

 たぶん「スポーツは人格形成の一環」が日米に浸透しているからかと ふと思う。

 興奮を誘発するスポーツの試合なんだけれど、言葉がけで、子どもらしさ、高校生らしさ、教育の一環という秩序を保とうとしている。

 子どものスポーツのコーチや親は、スポーツそのものを見ているのだけれど、大人として子どもを認めてやろうという気持ちを意識している。

 そして、その間を行ったり来たりしている。

 その証拠かどうか分からないけれど、子どものいない、コーチや大人だけの場になると、わりに露骨に、プロ野球選手を批評するような言葉で「足が遅い」とか「体の使い方がヘタ」とか子どもを評価している声を私は何度も聞いたことがある。

 子どもの側はどうなんだろうか。大人の発する言葉に体面保持の要素があることを感じとっているのだろうか。
 

 リトルリーグのコーチは空振りの続く子どもに「スイング」