週に1、2度、アメリカの小学校にボランティアに行っています。
始業と終業のベルはあるのですが、他の休み時間は学年ごとにずれているせいか、
1時間ごとにベルがなることはありません。
そして、また、授業時間にも関わらず、廊下を通行する子どもたちが多いのです。
ソーシャルワーカーと話をする、学習面で秀でた子どもの場合は、
一つ上の学年で得意科目の授業を受ける、
苦手科目だけ少人数の指導を受ける、個別にテストを受ける、など様々な理由で、
子どもたちは担当の先生や、セラピストに連れられて、廊下をウロウロと歩き、教室を移動していきます。
ひとりひとりの能力は違っているというアメリカ社会ならではの風景かと思います。
かといって、授業中騒いではいけないという規律は厳しいのです。
先生の言う通りに作業しない、騒ぐ、などの場合には、タイムアウトと称して、
教室の一角に座らされ、授業に参加できないなどの罰があります。
それでも、言うことを聞かない場合には、校長室へ行き、そこから保護者に連絡があります。
「次やると、校長室へ行く」という“脅し”もときにみられ、私などちっとやりすぎではと思うほどです。
それはさておき、
この廊下でウロウロと移動する子どもたちを見て、ふと、日本の特別支援教育のことが頭に浮かびました。
私は日本の特別支援教育のことは何も知りません。ですので、ここで何か意見を述べる立場にはありません。
ただ クラスで授業を受け、時々、支援クラスへ行く子も、支援クラスからクラスへ通う場合も、
日本では、その学校の運営様式ゆえに、「みんな」と違った子 という受け止められ方をしないかという懸念を抱きました。
日本の場合は「みんな」に、個人があわせられるからこそ、震災時でも世界が驚くように暴行や略奪が少ないのだと思います。
アメリカの場合はひとりひとりが違い過ぎて「みんな」という枠組みがあいまいです。
日本にも、アメリカにも、他の国にも、スペシャル・エデュケーションはあります。
教育内容とか、指導法などはお互い取り入れあうことができると思いますが、
けれど、その国々の社会構造のなかで、特別支援教育を、どう位置づけていくかは、
やっぱり国ごとに努力がいるのではないかと思いました。