プライベートレッスン 

 10年以上前の話。あるメジャーリーガーが年末年始を利用して野球教室をするというので取材に行った。参加者は日本人少年選手と米国人少年選手が半分ずつくらい。

 なかにきれいなフォームで速い球を投げる日本の選手がいた。メジャーリーガーもその子に気づいたようで熱心に何やら話しかけている。

 練習が終わって、選手の付き添いで球場に来ていた父親にも話を聞こうとした。父親はいろいろと話をしてくれたのだけれども「名前と写真は絶対に出さないで欲しい」と言う。所属している少年チームのみんなには野球教室に参加していることを知らせていない。だからチームのみんなが新聞を読むと困るといった。

 チームがひとつになって、同じ練習に取り組み、同じように試合に出場し、喜んだり、悔しがったり…。とくに子どものスポーツの場合には心身の育成とも絡められていることが多い。和や場や仲間関係の維持にエネルギーが注がれる。それはとても「美しく、尊い」ものだとされる。しかし、あまりにも「和」のエネルギーが強いと、そこからの抜け駆けを許さないのだろう。

 一方の米国では同じチームであっても、所詮はそのシーズンの、その試合の、または、その練習中の仲間でしかない。

 子どもといえでも、シーズンごとにトライアウトをし、チーム編成をしていくので、昨年とは全く違う顔ぶれのチームメートとともにプレーすることもあり得る。

 チームの練習はあくまで「全体練習」であって、多くの選手がほかに「個人練習」を積んでいる。

 個人練習といっても、練習外の時間に走ったり、トレーニングすることだけを指すのではない。

 学校の長期休暇の間に行われている民間のスポーツ・キャンプや、プライベート・レッスンなどが個人練習をしたい子どもたちに「場」と「指導」を提供している。(なぜか、私はこれらが日本の学習塾と非常に似ていると感じる)

それらの個人練習は、チームに報告することでもなく、隠すことでもない。チーム内でも、「どこそこにこういう練習をしてくれるプライベートレッスンがある」などの情報が行きかう。

 米国のユース・スポーツには、日本のように「和」や「場」のしがらみはない。

 しかし、民間のスポーツ・キャンプやプライベート・レッスンはお金がかかる。野球のプライベートレッスンは1時間80ドルが相場だそうな。種目によっては「保護者の経済力」が「個人練習」できるかどうかの大きな要因になっている。