私は拙著「子どもがひとりで遊べない国、アメリカ」を書いたとき、子どもたちが自動車の運転免許をとる日まで、大人に付き添われていることの問題は何なのかを考えた。

 私がぶつかっている問題、周囲の子どもたちや家庭の様子から見えるものを、私のできる範囲で調べて書かせてもらった。

 しかし、今も残っている疑問は「大人に付き添われて子ども時代を過ごしたからといって、この子どもたちが将来、何か困ることというのはあるのだろうか」ということである。

 べつに大人になっても困ることがないのなら、ずっと大人の目のある中で過ごすことの何が悪いのか、そのほうが安全なのに、ということになる

 しかも、ほとんどの子どもたちは大人に付き添われていることの窮屈さは感じでいないように見える(周囲のみんなも大人に付き添われているので、付き添われていることに疑問を抱かない)。

 大人による監視が強まる中で育ってきた80年代後半、90年代の子どもたちは、今、大人と呼ばれる年齢に達している。若年層の犯罪も減少傾向にあると聞いているし、べつに困ったことなどないように見える。コンピューター関連産業では若い人の活躍もニュースになっているし。

 このごろ疑問に思うのは、子どもたちの考える力のこと。私は学力のことを指しているわけではない。

 常に大人に付き添われている子どもたちが、自分で考え、自分で判断して、行動する力を育てられているかなと思う。学校や家庭で教えられた「正しい考えかた」や「正しい行動」だけを基準にモノを考える人になってしまわないか。「効率」とか「タスク管理」とかも含めて…。

 ただでさえ、棲み分けの進んだ格差社会に住む子どもたちは、同じような家庭環境の友達としか出会う機会がない。それに、「下層」から「上層」は垣間見えても「上層」から「下層」は見えづらいのではないかと思う。

 彼らは、誰かが打ち出した「正しい行動」のキャンペーンに、何の疑いもなくなびいていかないか。取り込まれたりしないか。
 
公権力には懐疑的であっても、コマーシャリズムのほうはどうだろうか。いともたやすくマーケティングのターゲットになる危険性はないだろうか。

 反社会的な行動や犯罪はニュースになるから「問題」として見えるけど、知らないうちにとり込まれているというのは、なかなか分かりづらい。

 ちょっと疑うとか、危ういところで引き返す力みたいなものがあるか。

 これが、今、私が抱いている心配なことです。