アシュリー事件と障害児野球

 私は聴覚障害自閉症の人とはおつきあいがあるが、これまで重い障害のある人と接したことがなかった。

 『アシュリー事件』(生活書院)には、重度の障害を持つ少女が、自分の意思には関係なく、世話をする両親が将来も介護をしやすいようにということで、体の成長を人為的に止めてしまった事柄が詳しく書かれている。

 アシュリー事件の著者の方は、重い障害を持つ人との出会ってほしいというような内容をツイッターなどでつぶやかれていたように思う。

 でも、私は出会ったことがなかったし、これまでの自分の知り合いや友人たちと同じように接することができるのかということにも戸惑っていた。

 ここのところ、ちょっとしたきっかけで、ミシガン州で行われている障害児野球を観戦するようになった。

 このリーグは二つに分かれていて、ひとつは競技に近いスタイルで行うリーグ。
 
 もうひとつは競技性のないリーグ。アウトはカウントせず、打者一巡するまで攻撃を終了しない。投手はおらず、コーチなどが投げたボールを打つというのが基本的なルールだ。

 競技リーグには自閉症ダウン症の子どもたちが多く、介助者なしでも、体を動かしてボールを打ったり、捕球することができる。

 競技性のないリーグは、車いすを使用している子どもが多く、『アシュリー事件』の少女のように、自分の力ではほとんど動くことができず、言語での表現方法を持たない子どもも何人かいた。

 私が非競技リーグの試合を見ていた日はとても暑い日だった。

 あるお母さんが「この子はとても野球をするのが好きなの。観戦するのはあまり興味がないのだけれど」と話していた。

 車いすに座っている子どもは、私には暑さにぐったりしているように見えたし、それに内心、お母さんが子どもに野球をやらせたがっているだけではないかとも思った。(親のほうが子どもに何かをやらせたいというのは、よくあることだと思う。私にもある)

 その子どもは、守備位置についた後も、おもしろくなさそうだった。

 しかし、彼が打席に入ったとき、心底、うれしいというような笑顔をした。頬の筋肉を緩めてニカと笑ったのだ。

 「ああ、野球がしたいんだな」。この笑顔を見て、ようやく私は彼の気持ちがわかった。彼のお母さんが野球をやらしてあげたいと思っているのもわかった。

 そして、独りよがりだろうけど、私は「出会うことができたかもしれない」とその瞬間に感じた。

 彼らは「重度の障害児」ではあるけれど、私にとっては「野球を楽しむ子どもたち」でもあった。

 勝手に何かのはじまりを感じた40歳の夏。

 
 

アシュリー事件―メディカル・コントロールと新・優生思想の時代

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