『「児童虐待」へのまなざし』

『「児童虐待」へのまなざし』(内田良・世界思想社)

「児童虐待」へのまなざし―社会現象はどう語られるのか (SEKAISHISO SEMINAR)

「児童虐待」へのまなざし―社会現象はどう語られるのか (SEKAISHISO SEMINAR)

 私は米国で子どもを育てていて、育児放棄の定義に悩んでいる。私が子どもだけで行動することを許可して、子どもたちを外へ送り出すとき、子どもが危ない目に遭わないかを心配すると同時に、私のやっていることが誰かに「育児放棄」とみなされて通報されないかということも心配している。私の被害妄想かもしれないけど、潜在的な加害者としてまなざされていることを意識して子どもを育てるのは、まあ、あまり楽しいものではない。

 この本は、普段、私が感じているモヤモヤを、学者さんが丁寧な検証をすることで、うまく言語化してくださっていると感じた。

 『はじめに』 の書き出しで、私は一人の親として「分かってもらえた」と感じた。


 色文字は引用。 子どもへの「虐待」とは、子どもを叩くことでも、子どもを無視することでもない。「やってはならない」と意味づけられることによって、はじめてそれは「虐待」となる。「虐待」とは、「禁止」を意味する規範概念である。 著者は虐待問題を軽視しているわけでもなく、子どもを攻撃することも容認していない。決して虐待防止に異を唱えているのではなく、虐待防止活動がその「正義」ゆえに、覆い隠してしまう何かを拾い出そうと試みている。
また、最後の第4章では、虐待を受けたことに対する世間的な評価によって、当事者に何等かの恥辱感や苦痛が生じるということについて書かれている。

 いや、本当に声を大にしてお断りを入れますが、私も子どもへの体罰・暴力や食事を与えない、登校させない、そのことを口止めするといったことを容認しているわけではありません。

 こういった本は、やっぱり学者の人だからこそ書くことができるんじゃないかなとも思った。

なぜなら、潜在的な加害者でもある親の立場からは、虐待や育児放棄へのまなざしへの疑問の声をあげにくい。選挙制度について論じる政治家みたいな感じか? 私の力不足なんだけど、私が親の立場から本を書いたときには、このことについては非常に書きづらかった。
虐待や育児放棄から子どもを守る援助職の人からも、この問題へのアプローチはやっぱり難しいのではないかと思う。

  虐待や育児放棄における定義は広くとらえることもできれば、狭くとらえることもできる。人によって定義が違うので、どこからどこまでが虐待かを見極めるのはとても難しい。
 
専門家の人々は、親がどういう意図でその行為を行ったかにかかわらず、子ども側にとって有害であれば虐待なのだ、という考えに基づいて対応をとっているそうだ。大人の主張よりも子どもの声を優先させる。それはそうだろう。子どもを保護するのが目的なのだから。
 
ただし、保護者から懲罰的な攻撃や放置を、子どもがやむをえない行為、正当な行為とみなしているときには、保護者と子どもにとって、それは「虐待」(あってはならないことという意味づけはなされていないという意味において)ではない。しかし、専門家にとっては容認されざる「虐待」である。ということが起こる。ということも書かれている。

 子どもが傷ついており、とにかく保護しなければいけないケースというのは確実にあるだろう。自分さえ我慢すればと思って、大人の暴力に耐えている子どもを解放することも必要だ。
親と子の間で、“正当”と思っていた行為が、専門家によって「虐待」または「育児放棄」と判断され、親から子どもを引き離して保護するケースの場合、その子どもや親が受ける衝撃や傷のようなものをどうフォローしているのだろうか。両者とも虐待・放棄と思っていないからこそ、介入が必要な場合もあると思う。ソフトランディングみたいな援助の仕方があるのかもしれない。

  そういったことが疑問として読書後に浮かんできた。

 この本によると、米国ではすでにこのような研究がたくさん出ているそうなので、また、少しずつ調べていきたいと思います。