日本経済新聞の権藤さんのインタビューを読んで

 今朝は寝起きから頭が痛かったのだけども、ツイッターで中日の前投手コーチであった権藤さんの体罰についてのインタビューを読んでいるうちに目が覚めてきた。

http://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXBZO51338050U3A200C1000000&uah=DF011120129633

 私は、すでに現役を引退された野茂さんが、90年代後半にドジャースで活躍していたときのことを思い出した。

 ある日の試合前のこと。

 ブルペンでの投球練習を終えた野茂さんが、ベンチへ歩きながら投手コーチと何か話をしていた。投手コーチからアドバイスがあったようだったが、野茂さんは手振りと英語で(それをしたら、ホームランを打たれてしまいます)(正確に記録・記憶していないので、野茂さんのコメントそのものではありません)という内容のことを投手コーチに伝えていた。投手コーチも納得して首を縦に振りながら「OK」と答えた。

 大投手の野茂さん。すでに大リーグでも結果を出した後だったから、また、何事も自分の意志で行動してきた人だから、あのような会話が成り立ったのかもしれない。

 しかし、プロの選手ならば、自分の責任において、コーチのアドバイスを受け入れることも、受け入れないこともできるはずだ。複数の指導者からのすべての助言を真剣に受け入れようと努力したならば、混乱で身体が動かなくなるだろう。

 日本では国を代表するトップレベルの選手であっても、ときには大リーグでも、現実的にはとても難しいことは私も十二分に理解しているつもりではいる。  

 けれども、選手が大人である場合には、指導者を敬いながら対等の関係を結ぶことができ、指導者のアドバイスに対して、本来ならば「それはどうも自分には難しいことのようなので、別の方法を考えたい。違う手段があれば教えていただきたい」と答えてもよいはずだ。

 しかし、指導者が大人で、選手側が子どもの場合は対等な関係が結びにくい。子どもは指示された練習についていくしかない。だからこそ、指導者によって、子どもの集団スポーツの成績が簡単に上向いたり、低迷したりするケースもある。

 指導を受け入れる側の子ども。例えば、子どもが「この練習をやり続けたら、自分はケガをするんじゃないか」と感じたとしても、子どもには競技者としての経験がないので、過去に照らし合わせて考えることは難しいし、それを言語化することも難しいだろう。

 指導を受け入れる立場にいる子どもを、体罰によってトレーニングさせ、指導者の思う通りに体を動かすようにさせるのは、心身両面において危険が大きいと私は思う。

 子どもにラクな練習をさせておけばよいと言いたいのではない。子どもが必死になって取り組んでいるうちに「できた!」と味わうことができ、次のステップへ進めるような指導。言うは易し行うは難しである。

 また、権藤さんのインタビューにおいて「やるのは選手」という言葉が出てくる。

 今、私の2人の子どもは小学生で、2人ともスポーツをやっている。

 勉強や宿題は「やるのは子ども」と悪い意味で放任してきた私だけれども、いざ、スポーツとなると、感情のコントロールができず、「やるのは子ども」と割り切ることは難しかった。

 特に子どもがスポーツを始めた幼稚園生や1年生ごろは、よく叱り、注意もしていた。

 スポーツは勉強とは違い、公開された場で行われるもので、そこでわが子が活躍すれば親としてもうれしく、逆に子どもが失敗すると恥をかくような気分にもなった。

 うちでは数年前から、夫婦して「やるのは子ども」と言い合っていて、家では練習や試合の話はあまりしない。そうでもしていないと、すぐにでもガミガミと「なんで、あそこでミスしたんや!どアホ!!」ぐらいのことは言ってしまいそうだからである。

 私たちは「親」であり「観客」であり、「指導」のお手伝いもしている。

 授乳し、抱っこし、おんぶし、おしめをかえ、ごはんを食べさせ、肉体的にとても近い関係にあった子ども。彼らの身体を、他者の身体として敬うことができるか。

 体罰を含む虐待に陥らないよう、フーリガン化しないよう、親として手さぐりの日々が続いています。