スポーツ・ルール学への序章 なぜ勝たなくてはいけないのか

公認野球規則1・02条

「各チームは、相手チームより多くの得点を記録して、勝つことを目的とする」

私自身、子どもの野球だから、親睦を深めるのが目的の草野球だから、勝敗にはこだわらないという言葉を使ったことがある。

しかし、「勝つことを目的とする」ことが規則で定められている。

なぜか。

「スポーツ・ル-ル学への序章」(中村敏雄)

この本の著者は

もしかしたらこのルールは、何らかの事情で「勝つことを目的にしない」試合や「負けることを目的にした」試合が行われ、そのような目的で試合が行われないようにするために考えられたルールではないかと思われてくる。

と。

つまり、試合が賭けの対象になり、選手たちが賄賂をもらい、わざと負ける八百長試合を防止するための規則なのではないかという推測している。

100年近く前のワールドシリーズでホワイトソックスの8人の選手が八百長に関与した「ブラックソックス事件」があった。その時代から、スポーツは賭けの対象として非常に魅力的なものだった。

 

この本では、野球規則をはじめ、普段は深く追求することもなく、そういうものだと受け入れてスポーツをしたり、観戦しているルールを興味深く解説してある。

 それは単なるクイズ的なものではない。

スポーツの新しいルールを考え出したり、古いルールを変えたりする背後には必ず何らかの理由や原因があり、そこにその時代と社会に生きた人々、とくにそのスポーツを愛好した人びとのスポーツ観、人間観、社会観などが含まれていると考えられ、それらに影響したその時代の宗教、化学、思想、産業、生活意識を読み取ることができる。

 あとがきには、ルール研究の行く先として、能力のあるものが楽しめばよいとして弱者を疎外する特徴もあるスポーツを、誰もがスポーツを楽しむ権利がもてるように変えていきたいという願いがつづられていた。

 私は今、日本で取り上げられているスポーツ界における体罰や暴力の問題、米国の脳震盪防止の議論や、終わりのないドーピングのことを考えている。

 社会では子どもを守るという動きが一段と強くなり、安全志向が強まるなかで、スポーツにおける暴力やケガの問題もクローズアップされてきた。スポ―ツを楽しんでいるはずが、取り返しのつかない大きな事故を引き起こしたら、考えるだけでも怖い。

 けれども擦り傷ひとつも負わない、絶対にケガしない、絶対にケガをさせないはなかなか完全達成できないし、絶対にケガをしてはいけないのだったら、家でじっとしているほかなくなる。

 私は、できるだけ安全に配慮しながら、スポーツを楽しむという間でバランスをとっていくしかないような気がしている。

 その関連として、スポーツのおもしろさを維持したり、より増すようにしながら、選手の身体が直接的、間接的にかかわる誰かによって消費されないようにしたいと願うようになっている。これだけ「見るスポーツ」が発達してきて、新聞→テレビ→多チャンネルなどの媒体で重要なコンテンツとなっているスポーツ。「見るスポーツ」が今ほど発達していなかった100年前にも先に書いたように賭けの対象であった。

 だけど、どうしたらいいのか全く分からない。

でも、この本はルールを研究することで、その先にある思いを何とかしたいという著者の願い感じることができて、とても心が揺さぶられた。