街の職人を久しぶりに見た

昨日、二男の自転車が故障した。

私と夫とで修理を試みてみたが、うまくいかない。

今朝、車で10分ほど離れたところにある町の自転車屋さんに持っていき、修理してもらうことにした。

この自転車屋さんで前回、自転車を修理してもらったのは4-5年前だっただろうか。

昨年あたりから、この店の前を通るたび、営業はしているようなのだけど、売り物件の札がかかっているのが見えていた。今朝も、まだやっているのだろうかと思いながら、店へ行ったのだった。

営業はしていたのだけど、店の中はすっかり片付けられていて、段ボールの箱が積み上げられていた。やっぱり店は売るつもりのようだった。

以前にこのお店に来たときは、一応、新品の自転車と関連商品もおいてあるけれど、いつ、仕入れたのか分からないような時代かかったものもあって、このお店が主に修理で成り立っていることがうかがえた。

今日は、もう、新品の自転車は子ども用2台しか置いていなかった。修理エリアもかなり片付けられているような印象だった。

変わらなかったのは古いラジオで、トークショーを流していたこと。

どうみても70歳は超えている、80歳近いと思われる店主で、修理もやってくれる。

店主のおじいさんは自転車の様子を見て、その汚れた手を腰にぶらさげたタオルでふき、ちびた鉛筆で小さな紙切れに、私の名前と電話番号を書きつけた。

おじいさんが受付も、修理も、顧客への電話も、レジもやっている。

このおじいさんの手が油で少し汚れていて、なんか久しぶりに職人の手を見た気がした。

そういえば、うちの死んだ父親の手もいつもインクで汚れていた。

私の近所にも自動車修理工や配管工といったサービスはあるのだけれど、

受付の人は別にいることがほとんどで、油のついた手にお金を渡すということをしばらくしていなかったような気がする。

米国でもチェーン店や大型小売店がほとんどで、個人経営の店は少ない。

それでも起業には積極的な国だから、若い人たちが小さな商売を始めているのを見かけることはある。新しく起業されている仕事には、機械油で手が汚れるような業種は少ないのかもしれない。

このおじいさんは、あの店が売れてしまうと、商売をやめてしまうのだろうな。

夕方、「修理できました」と電話をもらい、息子を連れて自転車を取りに行った。

おじいさんは息子に「家に帰ったら、乗ってね。車には十分に気をつけないとダメだよ」というようなことを英語で言い聞かせてくれていた。

 こういう場面に出くわすと、私はおじいさんのランプ (フォア文庫) という新美南吉の童話を思い出す。

 若いときには、昔はあったのに、今はなくなった商売なんて思いつかなかったけど、

 40にもなれば、時代や技術の進化とともに、商売がなくなるというのを目にすることもある。

 記者の仕事だって、もう急激な時代や技術の変化で、かなり変わってきていて、私などはもう店じまいしたほうがいいのかもしれないが。