伊良部さんを取材していました。94年の話

 私は1994年から2002年ごろまで伊良部秀輝さんをスポーツ新聞の記者として取材していた。1998年に日本からアメリカにひとり引っ越ししてきて、今は家族もできて居座っている。もとはといえば、不本意なまま伊良部さんの取材を終わらせたくないという思いで、アメリカに住むことにしたのだ。

 1994年の話。

 私は大学を卒業して、デイリースポーツに入社。神戸の会社なので、てっきり関西圏で仕事をすると思っていたのだけれど、入社直前に東京本社に転勤を命じられた。そして、数か月の研修のあと、夏の始めにロッテ担当になっていた。そのときの中心選手のひとりが伊良部さんだった。監督は八木沢壮六さん。

 伊良部さんは93年には西武の清原さんとの対戦で、球速158キロを記録。94年はローテーションに入り、速球とフォークを主体とした投球で、絶賛売り出し中といった段階だった。課題だったコントロールも少しはマシになり、速球が150キロ前後、フォークが140キロ台、時折カーブも投げていた。

 そのうち、160キロを出すかもしれないということで注目もされたけど、伊良部さんは球速だけでは勝てないこともよく分かっていた。「野球は球速を競うゲームではない」という内容のことも伊良部さんは言っていたし、「球が速いだけのピッチャー」と言われることもイヤだったようだ。

日本ハムの監督だった大沢親分が「幕張のイラブクラゲ」と称したのもこの頃だ。球団はこの若い投手を新しい球団の顔にしたいと「イラブクラゲ人形」というマスコット人形を制作。雨天中止の日に、伊良部さんに新発売のイラブクラゲ人形を持ってもらって、写真を撮るということをお願いした。新人だった私がお願いしたのではない。仕切ってくれたのは他社の先輩記者やカメラマン。伊良部さんはしぶしぶ、ちょっとふくれ面で撮影に応じた。プロ野球選手だったけど、こういった類のファンサービスは嫌いなようだった。「嫌いだ」ということを隠さずに、露骨に表してもいた。

 けれども、悪人でもなく、イヤな感じの人でもなかった。少なくとも私はそういった印象を持ったことはない。野球以外のことに、どう対処していいのか分からないといった感じだった。人形を持たされてモデルのように撮影するのはイヤだったようだけれど、オフシーズンに行われる少年選手を集めた野球教室では、子どもたちの投球フォームをよく見ていたし、才能がありそうな少年が投げるときは、目を細めて笑っていた。伊良部さんは「野球人として、できることをしていきたい」とよく話していた。そのひとつが野球教室で子どもに教えることだった。

 1994年、伊良部さんはオールスター戦にも選出。巨人にいた松井さんとの対戦では159キロ出ている。ユーチューブに動画もあった。ただし、この試合の私の記憶はあやふや。記者になって3カ月で初めて経験するビッグゲーム。事前に伊良部選手に関する独自のネタを用意するようデスクに言われて、ビビっていたことだけ覚えていて、試合のことが鮮明によみがえってこない…。

 日本ハム戦で延長になり、延長11回、すでに180~190球も投げている状態で、球速150キロが出ていた試合はよく覚えている。結局、200球投げて、完投勝利。球速がバックスクリーンに表示されると、場内はどよめいていた。延長で試合時間が長くなっていたので新聞の締切り時間の都合、試合を見ながら記事を書き、試合終了と同時に会社に原稿を送った。

 まだ、どこの球団でも球数で区切って投手を交代させることはあまりされていなくて、先発完投が評価されていた時代でもあった。延長11回、190球も投げているのに150キロで抑えたというような内容の記事を書いたと思う。投げ過ぎなんじゃないかとかは、一切、書いていない。

 伊良部さんは野球選手でありたいと願い、負けず嫌いであり、繊細で不器用な人だった。   

 94年のシーズンは最多勝奪三振のタイトルを獲得。そのオフのテレビ番組の収録後に取材をしたことがあった。私はオフの間にどのような練習をしているのかを聞こうとして「来シーズンはチームのエースとして…」と切り出した。すると、伊良部さんは「うちのエースは小宮山さんやで」とちょっと笑いながら返した。謙遜や先輩への遠慮といったものも含まれていたと思う。けれど、どこか、来シーズン、エースと呼ばれるのにふさわしいピッチングができるのだろうか、という自信のなさもまじっていた。

その一方で、試合に負けた夜、宿舎であるホテルに戻り、部屋で家具か、花瓶のようなものをけ飛ばしたことがあった。(もしかしたらこれ、95年の話だったかも)足の指をケガして、何日間かスパイクを履くことができず、サンダルのようなものを履いていた。

繊細さ、気の弱さと投手として相手打者を抑えたい、勝ちたいという強い気持ちの2つの極の間で大きく揺れていた。それが、伊良部さんを取材した、記者1年生の私が感じたものだった。

このシーズン中に八木沢監督が休養。中西さんが代行監督に。次監督候補が誰かを取材しないといけないので、試合にいかず監督問題を取材するように言われたが、新人記者にとっては、目に見えない蝶々を捕まえるくらい難しかった。

ロッテは、広岡さんをGMに、バレンタイン氏を監督に迎えると発表した。

年があけて、阪神大震災の日のこと。震災が起きた日、私は千葉県松戸市にあった会社の寮にいた。テレビのニュースで地震のことを知ったと思う。その日はロッテの自主練習の取材に行くことになっていた。大阪市内にある私の実家に電話してみたが、電話はつながらない。とにかく、仕事にいかなければと思い、千葉の幕張にある球場へ行った。尼崎(もしかしたら尼崎と隣接する大阪市内に移っていたかもしれないが、はっきり覚えていない)に実家のある伊良部さんもいた。伊良部さんも実家に電話がつながらないと言って、それほど深刻そうではないけど、やっぱり不安な顔つきだった。

会社はそれどころではなかった。デイリースポーツは神戸の会社だ。東京本社とはいえ、神戸から単身赴任してきている人も少なくなかった。夜、会社のテレビで、街が燃えているのを、単身赴任中のデスクがじっと見ていた。仕事が手につかないところを何とか抑えて、普段通りに仕事しようとしていらした姿は今でもよく覚えている。このオフは、近鉄にいた野茂投手が大リーグ挑戦を表明した年でもある。