私は1998年1月末に、メジャーリーグなどを取材するため、日本から米国ロサンゼルスへ移ってきた。
それまで月単位の出張でメジャーリーグの取材には来ていたのだけれど、一か月で結果を出したいと焦っていたため、腰を落ち着けたいと思ったからだ。
日本ではプロ野球のロッテ担当と巨人担当の下っ端を経験した。ロッテ担当時代には伊良部さんからもおもしろい話をいろいろ聞かせてもらった。しかし、その伊良部さんがロッテからメジャーに移籍するときのゴタゴタで、マスコミに対してもしゃべらなくなった。
当時の私が欲しかった「結果」とは、また、伊良部さんからおもしろい話を聞く、伊良部さんが「悪人」でないことを記事を通じて伝えるということだった。
出張中には野茂さんの担当になった。伝えるべき言葉をたくさん胸の内に秘めているような野茂さんにも、聞きたいことがたくさんあった。
それで私は、当時勤めていた会社に無理をお願いして、ロスに来た。
とはいっても、アメリカに誰一人頼れる人もいない。米国人の知人からロサンゼルスの郊外に住む知り合いがいるので、その人に助けてもらえばいいのではないか、と紹介を受けた。それがムスタカス家だった。
ムスタカス家には子どもが3人いたが、広い家でゲストルームもあったため、私はその一部屋を貸してもらえることになった。
末っ子の男の子は当時9歳。マイキーと呼ばれていた。私が初めて家に行った日には、日本人の客に喜んだようで、ピョンピョン飛び跳ねるように動き回って、家の中を全部を案内してくれた。私が間違えてカギをかけてしまったときも、小さな男の子が針金を持って走ってきてくれて、任しておいてというような笑顔で「これを鍵穴に押し込めばあくよ!」といってあけてくれた。
この男の子が野球しているのは知っていたけども、彼の野球の試合そのものは見に行ったことがなかった。私も野球の取材をしていてシーズンが重なっていたから。
ただ、彼のチームメートはよく家に来ていたので親しくなったし、ある年には別のチームのクリスマスパーティーに私も同行させてもらった。その時点で、どうやら同時期に2チームでプレーしているということが分かった。(今季、ムスタカス自身に確認したら3チームに所属していた時期もある、と言っていた)
彼のバスケットボールの試合やフラッグフットボールの試合は2、3度見にいった。運動能力の高い子どもだとは感じた。私もまだ20代の半ばだったので、家の庭でも2人でバスケットボールをしたり、フットボールをしたりして遊んだ。
日本の子どもにはないがっしりとした骨格と、地面をける瞬間に足の親指をうまく使い、無理なく力が入っているのを見て感心した。彼と彼のお父さんは足の親指が大きく、その親指をうまく使っていて、かかとをベタっと地面につけることがない。(メジャーリーグ中継をご覧の人は、彼の歩き方や走り方を見てください。親指を使っているのが分かると思います)
しかし、バスケットボールやフラッグフットボールの試合を見る限りは特に目立つこともなく、同級生の中で小柄な彼が何かを成し遂げるようには見えなかった。(まさに私は何も見えていなかったというわけ)。
上の2人のお子さんはすでに忙しく、私が休みの日には、テレビの前でこの男の子と二人でゴロゴロしていた。私がメッツでもらってきた遊撃手レイ・オルドエスのビデオを見て、2人でオルドネスごっこをやったこともある。
私は結局2年半以上、この家で世話になり続けた。この間、ムスタカスのご両親から受けた恩は計り知れない。私は4人目の子どものように世話の焼ける存在だったと思う。
彼が12才になる少し前に、私は結婚することになり、この家を出た。
ここでもヒマだった彼に手伝ってもらい荷物をまとめた。やんちゃだけども、家の窓拭きもよくしていた素直で天真爛漫な彼だったから、頼みやすかったというのもある。
私は「ちょっと小さいんですけども、いい友達が手伝ってくれるから助かります」とムスタカス家のお父さんに話したところ、お父さんは「でも、力は強いでしょ」と。ほとんど子どもの自慢をすることのないお父さんだけど、成長しつつある息子の姿が見えていたのだと思う。私はそのとき「メジャーリーガーになったら取材させてほしい」と冗談のつもりで言っていたけど、お父さんにはその可能性が見えていたはずだ。
山口百恵の「秋桜」という歌がある。結婚のための荷造りを手伝ってくれたのは母ではなく、私にとってはこの少年である。
彼が強い高校で野球を続けているのは知っていたが、07年に一巡目2位でロイヤルズから指名されたときは、驚きのあまりソファから飛び上がった。すぐさまロスに行って話を聞かせてもらった。
そのときはまだメジャーリーガーではなかったから、「メジャーリーガーになったら取材させてほしい」という約束は果たしていなかった。
私は、メジャーリーグに昇格したときにも話しを聞きにいった。しかし、彼はひとりの新人選手でしかなく、日本のファン向けの雑誌を作っている編集長に売り込むには少々押しが必要だった。
今年のプレーオフでの彼の活躍ぶり。私は「恩人の息子」であるから話しを聞いて記事にするのではない。日本の読者にも伝えるべき選手であるという理由で、ようやく会社に売り込むことができた。
ただ、私自身があまりにも浮足立っていて、なんとか最低ラインの記事にするのが精一杯という情けなさというオチがついてしまったのだけど。