アメリカで2分の1成人式に相当するようなもの

昨日のエントリーで2分の1成人式について書きました。

配慮すべきはプライベートな内容を発表させることであって、家族形態が他の子どもたちと違うことを隠すこと、隠してあげることではない、という内容です。


二分の一 成人式 - 『子どもがひとりで遊べない国、アメリカ』 (谷口輝世子・生活書院)

考え直してほしい「2分の1成人式」――家族の多様化、被虐待児のケアに逆行する学校行事が大流行(内田良) - 個人 - Yahoo!ニュース

今日もその続きです。「米国にも同様のものがあるのか?」を私の個人体験としてレポートしてみます。

 私も米国に2分の1成人式と似たようなものはあると思いますが、米国では乳幼児期の振り返りや家族について学校で話し合うときに「両親が揃っていない子どもへ配慮がない」という意見は聞いたことがありません。ひとりひとり家庭の形態は違うという前提ですので、生物学上の両親と暮らしていない子どもに関して「みんなと違っているので肩身が狭いのでは。かわいそうなのでは」という見方はしていません。家族の形態をオープンにし、どのような形の家族のもとで育っていても、肩身の狭い思いをしない権利が子どもたちには与えられているように思います。

 ただし、アメリカは「ポジティブ病」という言葉で語られるほどに、前向きでいなければという雰囲気があるので、家族関係も「楽しく、愛情にあふれ」という文脈で子どもたちに向けて語られることは多いように感じます。

 また、「子どもに感謝されるほどに親は子どもに尽くさなければいけない」ことはアメリカにもあると感じます。実際に親がどれだけ子どものためにお金と身体を動かせるかが、子どもの環境格差に直結していると私は感じます。

以下、私が米国での子育てを通じての個人的に経験したことです。

1、日本の2分の1成人式では、自分の生まれたころの写真を学校に持っていかなくてはいけない。

→私は子どもがDay Care と呼ばれる保育園に通っていたときに、保育園から家族の写真を持ってきてほしいと求められました。理由は子どもが親と離れたくない、親に早く迎えに来てほしいなどという理由でグズっているときに、子どもに家族の写真を見せて「今は仕事に行っているけども、時間になったらお迎えにきますよ」と説明するためだそうです。どういう家族の形態であっても、主にその子どもの世話をしている同居の大人が写っていることがポイントなので、同性愛カップルでも、ひとり親家庭でも、生物学上の両親が揃っていないかどうかなどは全く問題ではありません。

→キンダーガーテン(日本の幼稚園年長児)

 米国ではキンダーガーテンは義務教育の一番下の学年で5歳児です。私には2人の子どもがいますが、2人ともキンダーガーテンが始まってすぐに、学校に家族の写真を持ってくるように求められました。これも保育園時代と同じ理由です。私の子どもたちが通ったクラスには、ふすまのない押入れのようなスペースがあり、クッションやぬいぐるみが置いてありました。子どもが感情をコントロールできず、かんしゃくを起こしたり、悲しくなって泣きたくなると、そこで休憩してもよいことになっていました。そのふすまのない押入れ下段スペースに、家族写真が貼ってありました。これも、子どもが自分の家族の顔を見て、落ち着くためだということでした。

→私の子どもが通っている公立小学校は小4が最高学年で、小5-6は別の校舎に移り、7年生から中学校に通います。小4のときには卒業式にあたるものがありまして、(米国の場合、卒業式の本番は高校なので、小学校は簡単なもの)このときに、会を主催しているPTAから子どもの乳児か幼児時代の写真を持ってきてほしいと依頼がありました。スライドで乳幼児時代の写真を映し出したあとで、現在の子どもの写真を見せ、その成長ぶりを確認するというものです。産まれたての写真から幼稚園ぐらいの写真までさまざまですが、生い立ちを語ることはありませんでした。式の中で一番、盛り上がります。

2、親は感謝されるほど子どもに尽くしているという幻想

→学校で親向けに手紙を書く。

 小3ぐらいまでは2人とも母の日や父の日に手紙を書いて持って帰ってきました。

 「~してくれてありがとう」「~してくれてありがとう」という箇条書き形式になっている年もありました。父や母がいない人はどうするのかについては、近しい人、世話になっている人に書くようです(未確認)

→親が子ども向けに手紙を書く。

 小学生のうちは保護者との個人懇談で、先生が子どものテストや作品を見せながら、親に学校での子どもの様子を話ししたあと、親がこれに関するメッセージを書いて子どもの学校の机に入れて欲しいとのことでした。

→親への感謝の言葉

 これは学校ではありませんが、子どもが所属しているスポーツチームでは、シーズン終了後にパーティをします。コーチが子どもたちの長所をよく見て「アシスト王」「得点王」のようにひとりひとりを表彰します。その後、子どもたちが練習のサポートや送迎に対して、親にThank you といいます。

「親は子どもに感謝されるほど子どもに尽くさなければいけない」というのは米国で親をしていてもよく感じることです。実際に学校外の活動では親の送迎や関わりが不可欠ですので、親が経済も含めてどれだけ子どものために動くことができるかが、子どもの環境の格差にもつながっていると感じます。

 学校は子どものテスト結果、出席、宿題提出などの詳細な情報をオンライン、オンタイムで親が閲覧できるようにしています。子どもが悪い成績をとる前に、親が「提出物を忘れるな!!」とか「テスト勉強!!」などと管理できるというわけです。言い方を変えれば、学校側は詳細を親に知らせているので、親がそれを毎日、チェックしていれば、単位を落とすことをかなり予防できるので、「子どもに尽くすことを求められている」と感じます。

 個人のまとめ。

1、米国の場合、学校で「理想的な家族の形(両親が揃っていて、子どもは愛情を注がれている」を再生産していないと思う。

2、米国でも、「親が子どもに尽くさないと、子どもは(親が現在いる)社会階層を維持できない」という空気があるように感じる。

追記。米国の場合は、保護者に子どもが学校行事に参加するかどうかの選択権を与えている。また、選択できる権利を与えられ、それを行使するのが当たり前のため、「子に尽くす」という内容のなかに、保護者がベストの選択をするという責任も含まれているように感じる。

追記2 米国の場合、2分の1成人式であるべき家族の幻想を教えられるということはないけど、公立校では毎朝、国旗への忠誠の誓いをしているので、学校が愛国心、国への忠誠心を子どもに叩き込むパワーは、2分の1成人式のあるべき家族、感謝の強制よりもよほど強いはずだ。

追記3 米国系ユダヤ人でユダヤ教の人は13歳(男子。女子は12歳だったか?不明)のときにバル・ミツバという儀式がある。