『運動部活動の戦後と現在』を読んで、アメリカから現地レポート

『運動部活動の戦後と現在』(中澤篤史著・青弓社)を読んでいる。

実はまだ途中までしか読めていないのだけれども、中澤氏の日米英の部活動国際比較について、アメリカから現地レポートしてみようと思います。

この本の日米英の部活動国際比較部分についてはシノドスで読むことができます。


運動部活動は日本独特の文化である――諸外国との比較から / 中澤篤史 / 身体教育学 | SYNODOS -シノドス-

 このシノドスには載っていないのだけれども、書籍にはP81注13として次のようなことが書かれている。

アメリカでも、19世紀末あるいは20世紀初頭、東海岸地方で運動部活動が大きく広がりを見せていった。そのときから現在に至るまで、アメリカの運動部活動で、スポーツを通じて人間形成を図ろうとする観念と実践は、少なくとも言説としては絶えることがなかったといってよい。しかし、実態としては、それ以上に「勝利」「ビジネス」「スペクタクル」と結びつけられた競技活動として、アメリカの運動部は展開してきた。なぜか。

実はアメリカも人格形成は常に強調されていることと、この引用した注の部分の「なぜか」について、現地レポートと私の憶測を書きます。

 1、シノドスの日米英の比較表にあるように、日本の指導目的が人間形成であるのに対し、米国は競技力向上となっている。しかし、これは書籍の注13に書かれている通り、米国でも子どものスポーツ、学校スポーツでは常に人格形成が目的であることが強調されている。

 運動部の生徒たちはathlete ではなく、student athlete と呼ばれている。これは選手であっても常に学生という身分であること忘れないためだ。プロ選手ではなく、アマチュア選手でなければならない。

 それに、米国では学校の成績が一定基準に達していないと、たとえトライアウトという入団テストをパスしても、運動部活動に参加できないという規則がある。(日本でも顧問の方針で、という事例は聞いたことがある)

 米国では19世紀末に生徒たちが自主的に野球やアメリカンフットボールをし、生徒たちだけで学校対抗戦の段取りをし、用具購入や施設使用に必要なお金を集めるために入場料もとっていた。しかし、これらの学生たちが秘密結社的に他の生徒を排除したり、生徒だけでお金の管理をしていたことから、会計係であるマネージャーの生徒の横領などが問題になった。そこで20世紀はじめには学校側が介入し、州の高校体育協会も作った。このときから、学校側は一定の学業成績に達していないものは参加できない規則を盛り込んできた。(学校の介入に対して生徒は反発。特にこの学業成績に関する規則に対して生徒はかなり反発したそうだ)

参考文献 The Rise of American High School Sports and the Search for Control, 1880-1930 (Sports and Entertainment)

 

 2、注13の「なぜか」に対しての現地の様子と私の憶測、推測。

  〇米国人は運動部活動の競技性そのものを人間形成と捉えている。

    これは1とも関連しているが、米国人は子どものスポーツに何を期待しているのだろうか。

 この書籍にも書かれている通り、米国では集団種目は基本的にはトライアウト制である。一軍であるバーシティチームに入るには、トライアウトで勝ち抜かなければならない。他校との試合では、ルールに則って、フェアに戦い、チームメートと協力しあい、勝ち抜かなければならない。アメリカ人の大人たちは、「競技力を向上させ、チームで協力し、フェアに戦い、そして勝ち抜くこと」こそ、子どもたちがスポーツをやめた後の人生で必要なものと考えているのではないか。米国人は子どもが就職するとき、就職してからの仕事においても与えられるのではなく、努力して何かを自分自身で勝ち取ることが必要と考えている。

 日本の指導者が社会に出てからも「あいさつ」や「言葉遣い」は重要であるから、これらをスポーツを通じて学び、人間形成をして欲しいと望むことと同じだろう。

 参考文献 Playing to Win

Playing to Win: Raising Children in a Competitive Culture: Hilary Levey Friedman: 9780520276765: Amazon.com: Books

 この本の感想文もブログのエントリーに書いています。

米国のスポーツ少年、少女の親は何を期待しているのか。 - 『子どもがひとりで遊べない国、アメリカ』 (谷口輝世子・生活書院)

 〇スペクタクルと高校の地域密着。

  私はミシガン州デトロイト郊外に住んでいて、市の人口は約9万人である。9万人の市には公立高校が3校ある。進学の際に受験はなく住んでいる場所によってどの高校へ通学するかも自動的に決まる。つまり、公立高校の運動部に所属しているのは、この市の住民の子どもたちである。
 米国の中高スポーツは近隣高校とのリーグ戦であり、学校対抗戦は長年の対戦によってライバル関係にある。リーグ戦は基本的には自校か対戦相手校のグラウンド、体育館で開催される。ホームゲーム、つまり自校のグラウンドで行われるときには、同じ学校に通う生徒、保護者だけでなく、地域住民がアクセスしやすいため、多くの観客が詰めかける。同じ学校の生徒によるチアリーディングとブラスバンドが応援して盛り上げる。自校の生徒と地域住民と、高校運動部との物理的、心理的距離の近さが、スペクタクルにつながっているように思う。(アメリカに来て、初めて高校の試合を見に行ったとき、観客席スタンドが立派であることに驚きました)

 〇「勝利」「スペクタクル」と「練習と試合」について。

 米国の子どものスポーツや学校運動部は日本に比べて、全体練習日数に対する試合数が多い。高校のアメリカンフットボールは練習週4回、試合が週1回が一般的だ。地域にあるアイスホッケーチームは小学生、中学生とも6カ月のシーズンで50試合以上しているチームが多い。私が保護者として経験した小学生の競技の野球チームでは、シーズン中は、練習が週2回、試合も週2回だった。

 私は1995年にロッテ球団が広岡ゼネラルマネジャー、バレンタイン監督を迎えたときに担当記者をしていた。そのとき、広岡GMとバレンタイン監督は練習量を巡って意見が対立した。広岡GMは練習量重視なのだけれども、バレンタイン監督は「若い選手は試合でしか経験できないことがある。経験は練習では得られない」と反対していた。

 米国人が練習の重要性は否定しないまでも、練習よりも試合を重視するのは「試合でしか得られないもの」があると考え、「試合は子どもたちがより楽しめる(スポーツそのものの特性保持)」と考え、実は保護者が「子どもたちが試合をする姿を親として見るのは、練習を参観するよりも親として楽しめる」と考えているからではないか。

 つまり子どもたちの試合そのものが大人たちの娯楽、エンターテイメントであり、練習より試合のほうが「勝利」は意識されて強調されるし、「スペクタクル」の要素が強いのかもしれない。

〇高校の上の大学スポーツの存在。

 NCAAのアメリカンフットボール、バスケットボールにあれだけのスポンサーと観客が集まるので、高校運動部も「勝利」「ビジネス」「スペクタクル」と結びついている。(大学になぜ、あれだけのお金とお客が集まるのかは、長くなるので、また別の機会に書きます)