谷口輝世子Kiyoko Taniguchi

米国在住のライター。日本ではスポーツ紙の記者をしていました。スポーツ取材が中心です。

組み立て体操は見せものか、発表か

夕べ『問題としてのスポーツ』(エリック・ダニング著 大平章訳 法政大学出版)をパラパラとめくっておりました。

第1章の「スポーツと余暇における感情の問題」

私自身が組み立て体操問題という文字を書き込んでいたページがありました。

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スポーツを含む余暇活動は、規則、管理された労働環境や社会環境と関連があります。

私たちは、管理された中で働き、感情的になることをネガティブに捉える社会環境のなかで、生きています。

毎日の暮らしのなかで抑制されている感情を、解放できる場のひとつが余暇の活動です。演劇や音楽をしたり、見たり、スポーツを見たり、したりすることです

ダニングはこう書いています。楽しい希望と交互に起こるつかの間の不安がなければ、また期待に満ちたわくわくするような喜びとはらはらするような一抹の不安が行きつもどりつしなければ、限定された満足感しか余暇活動からは得られないということ。

成功するかとうか、勝つかどうか、やってみなければ分からないドキドキハラハラするような感情が、スポーツの醍醐味であること。この次にどうなるか分からないから映画や演劇をより楽しめるということ。ホラー映画に人気があること。なのだと思います。

それで、なぜ、組み立て体操問題、という文字を私が書き込んだのかというと、組み立て体操を成功させる、成功させなければいけないという恐怖と、うまくいったときの快楽の振れ幅がものすごく大きく設定されているのではないかと思ったからです。巨大な組み体操では、難易度と恐怖度が高く設定されていて、その難易度と恐怖度ゆえに、成功した場合には、大きな快楽を得ることができる。たとえば、巨大組み体操が「我が校の伝統です」となどという理由付けで取りやめにするのが難しい場合、成功したときに感じる大きな快楽を手放すのが難しいのかもしれません。生徒も教員も保護者も。

自分にとって、ちょうどよい難易度のとき、人は喜びを感じてその課題や作業に取り組むことができると言われています。「フロー体験」という言葉もあります。

だから、運動会のいろいろな演技、組み立て体操も、子どもたちが「できた」と手応えを得られるものであって欲しいと思います。簡単すぎる課題では、手応えを得られません。

しかし、学校の場合は、全児童や全生徒が参加することを前提にしており、全員参加を前提にした難易度を設定しなけれないけないという困難さがあります。課題や目標の設定の仕方によって、組み立て体操の高さや大きさ以外で、手応えを感じられるポイントはどこなのか。

ジェットコースターや映画は、擬似的に恐怖と快楽の揺れ動きを楽しむものですが、スポーツは生身の人間がするもの。見る人が恐怖と快楽の振れ幅を楽しむために、子どもの体が消費されていないか。子ども自身が恐怖と快楽の振れ幅を楽しみたいからと、リスクを推し量ることを後回しにしていないか。

子どもが元気いっぱいに動きまわる姿は、見ているだけの大人に心地よい刺激をもたらしてくれます。でも、子どもの体は、私たちを感動させるために存在するのではありません。プロ選手たちは、そのパフォーマンスをファンに「消費」されているのかもしれません。でも、プロ選手たちの身体そのものが消費されるようなことは、選手会などの存在で多少は歯止めがきくようにも思います。特に最近は。

このダニングの本は、フーリガンについても書かれていて、不安、緊張と快楽の揺れ動きと、見る人たちの暴力についても触れられています。

 

 

 

なぜ、人はスポーツ観戦をするのか。お金を払ってでも。

 私は大学を卒業してから、スポーツ報道に携わってきた。スポーツをすることも、見ることも、好きだ。 

 記者席から、満員の観客席とフィールド上の選手たちを眺めていると、異次元にトリップすることがある。数万の人たちが、フィールド上の数人、十数人の選手の一挙手一投足に注目し、熱狂している様子を、とても不思議なことのように感じるのだ。何万人もの人を、なぜ、これほど楽しませることができるのかと。

 確かにスポーツ観戦はドキドキとワクワクにあふれて、おもしろい。だから、万人単位の大観衆が立ち上がり、喜び、興奮するのは当たり前のことなのだと思う。 

 しかし、選手は自分の家族でも、親しい友人でもない。世界トップ、国内トップのパフォーマンスができる極めて優れた人たちだが、いわば「よそのおじさん、よそのお兄さん」「よそのおばさん、よそのお姉さん」たちだ。それでも彼、彼女らの動きを見るために、高い入場券を競ってでも買い求めるのは、なぜなのだろうか。よそのお姉さんである選手が金メダルを取っても、よそのおじさんである選手がサヨナラホームランを打っても、私やみなさんの給料までが増えるわけではないのに。

  試合開始前には待ちきれない気分でそわそわし、手に汗握って観戦し、ひいきのチームが勝てば仲間と祝いたくなる。なぜなのか。

 その疑問を、私なりに考えてみた。

 1,ヒトの脳にはミラーニューロンというものがあり、他人の動きを見ているだけでも、自分が動いているかのように感じられること。選手のパフォーマンスを見て、あたかも自分がやっているかのような快を味わえるのかもしれない。   

2,恐らくミラーニューロンとも関係しているのだろうけども、スポーツを見ているだけでも心拍数が上がり、男性ホルモンのテストステロンの分泌が高まる。スポーツ観戦するとワクワクする感覚が味わえる。

3,1や2と関連して、特定のチームや選手と自己を同一化することができる。スポーツとアイデンティティ。

4,3と関連して、応援している特定チームや選手の勝利、成功によって、ファンである自分自身も勝者になった気分を味わうことができる。ファンである自分自身も周囲から好評価を得ることにつながる。

5,特定のチームや選手を応援することによって、同じチームや選手を応援する他の人たちと一体感を得ることができる。

 1から5を見ていけば、スポーツ観戦は、見ているだけでも、あたかも自分がやっているかのように感じることができ、ワクワクし、自尊心を満たし、他の人との一体感をできる素晴らしいものだと言える。応援しているチームや選手に共感することができ、自分の家族でも友人でもないトップ選手のパフォーマンスを見るために、人はお金を払う。

(プロスポーツの経営者は、観客がミラーニューロンを発火させ、テストステロン値を増加させ、スポーツチームへ同一化してくれるように工夫している。知らない人がやっているプレーを、自分の好きな選手が自分たちのためにプレーしてくれているとファンが感じてくれるように工夫しているはずだ)

  ただし、応援しているチームや選手がいつも勝つとは限らない。ゲームは、戦力や勝敗のチャンスが拮抗しているからおもしろい。けれども、ファンの中には、筋書きのないドラマよりも、常に勝つこと、常に楽しませてくれることを望んでいる人もいるだろう。

  しかし、遠く離れた選手たちのパフォーマンスを観客たちはコントロールできない。せいぜい、野次を飛ばすか、ツイッターやフェイスブックで批判するか、選手やチームを叩く論調の記事を読んでウサを晴らすくらいのことだ。

  さて、ここから子供のスポーツへと話をスライドさせる。米国に住んでいる私は、「これは、子供のスポーツであって、プロのスポーツではありません」という言葉をよく聞く。子供のスポーツに力を入れ過ぎる親を戒める文言だ。プロスポーツを観戦するときのように勝敗にこだわったり、ミスを罵ったりしてはだめだということなのだろう。

  しかし、私にはこの文言の効果はまるでない。なぜなら、ひいきのプロスポーツの試合を見て、チームや選手のパフォーマンスに腹を立てたことや勝敗にこだわったことは、ほとんどないからだ。スポーツ報道を仕事にしていることもあり、少なくとも大人になってからは一度もない。プロスポーツを観戦して、野次ったこと、罵ったことは、これまでの人生で一度もない。

  それは私がプロチームや選手に対してあまり思い入れがないからだろう。前述した3番とは逆で、チームや選手の成功と、私の生活は全くリンクしていないし、させてもいない。(そりゃ、私だって血の通っている人間だから、取材している選手が活躍すれば、心のなかでああ良かったなと思う。でも、同一化はしていない。選手と私の間には明らかな線が引かれている感じがする)。

  ところが、子供の試合の観戦となると、まるで話が違うのだ。私の場合はプロスポーツや国際大会を観戦するときのほうが、勝敗やミスに全くこだわらず、純粋に試合を楽しむことができる。それなのに、子供の試合となると、接戦になると、我が子のミスのせいで負けることはないかとハラハラしたり、普段の力を出せていない試合があるとイライラしたり、ケガをしていないか心配ばかりしている。

 勝敗にこだわったことはないが、プロや国際大会を見るときの5倍くらい、あたかも自分自身がやっているかのように感じる。それはプレーする人が「よその人」ではなく「自分の子」であり、私が子供と同一化しているからだろう。

  ちなみに私の夫で、子供の父親は、私とはイライラするポイントが違うそうだ。我が子の好プレーにチームメートがうまく対応できなかったときに、フラストレーションを感じるという。

  告白すると、私は子供のスポーツを見るときには、筋書きのないドラマは求めていない。私が思い描いたようなプレーをしてくれることを求めている。私がイメージしたような動きを子供がしてくれて、それを見ることが、私の快なのである。子供が試合に没頭して、好プレーする姿を求めているのだ。

  熱狂的な観客が、トップ選手のミスに対してできるのは、せいぜい遠く離れたところから、野次ることやブーイングすることぐらいだと書いた。しかし、子供のスポーツでは、私の思い描いたプレーをしてくれない選手=子供に対し、「なぜ、言ったように動けないのか」と罵ることもできるのだ。しかも、密室で。

  なぜ、私は自分が思い描いたプレーを子供に求めてしまうのか。それは、また今度にします。

職員室と校長室を変えない限り、部活動問題は解決しない。

 私はこの1年間、学校の教員がやりたくない・できないのに部活動の顧問を押し付けられて、放課後の練習に付き添ったり、週末も練習や試合で休めないことをネットや新聞記事で知るようになりました。

 これまで先生方が部活動の指導で忙殺されているのは、生徒・保護者の部活動への需要が高いため、全員の先生が顧問をしないと供給が追いつかないのだろうと考えていました。

 ところが、内田良先生のヤフーの記事やその注につけられていた資料によって、積極的に部活動の指導に関わりたい教員が3割、条件付きなら部活動の顧問を引き受けると考えている教員が少なくないことが明らかになりました。

  標準的な公立中学校で全校生徒600人、教員数30人の学校で、仮に半数の教員が条件付きで顧問を引き受けたら1人制で15の部が、主・副顧問制でも7-8の部の顧問をしてもらえます。

 もちろん、ある先生の転勤に伴い、希望していなかった、やりたくない種目の部の顧問を務めるという問題は残りますが、数だけを見た場合、私には公立学校が提供できる部活動数としては十分なように思えました。

 私は疑問を持ちました。もしかして、生徒・保護者の需要が高いというよりも、学校内の全教員が部活動に携わるという前提のために、仕事数が増やされているということはないだろうかと。

 それと、学校の教員というのは法的に保障されていることでさえ、主張するのが非常に難しいこととも関係があるのではないかと推測しました。

 つまり部活動の需要と供給の問題ではなく、(教育委員会や)学校の管理職と教員間での同調圧力の問題によって、仕事が増やされ、部活動顧問を拒否することが難しいのではないかと考えたのです。

 現在、運動部顧問を引き受けるか、引き受けないかの権利を保障するように署名運動をしている先生方は匿名で署名運動をされている方が多いのです。署名のHPにも現役教員が実名を使ってのフェイスブックでは保護者や生徒から誤解される恐れがあるため拡散が難しいとも書かれていました。私は署名活動も、匿名で活動されていることも批判していません。念のため。

 日本中の全部の学校ではなく、ごく一部の学校と思いたいのですが、学校の職員室と校長室で非常に自分の意見を言いづらい状況である。仮面をかぶって指導にあたっている先生方が日ごろ抑えていた不満が匿名のツイッターやブログにあふれているのではないかと。

 ツイッターでやりとりしているうちに、法的に顧問を拒否することは可能でも、顧問拒否は学校内で村八分になるといった内容や、学校内の教員間のいじめのようなものがあるという内容の書き込みも見るようになりました。

 全員が同じように顧問を引き受けなければいけない。引き受けないとその教員が不利益になるような、目に見えない制裁が下される。たとえ法的根拠や科学的根拠がある意見でも封じ込まれる。

 私は学校の運動部が顧問の先生や生徒たちにとって参加しやすいものであるように、活動時間制限や、外部指導者の採用過程・報酬など、アメリカの事例を紹介してきました。
 しかし、全員が同じように顧問を引き受けなければならないことや、拒否した場合の制裁といういじめが改善されない限り、活動時間制限や保護者への啓蒙は、ほとんど意味をなしません。「活動時間が少ないのだから全教員で顧問を」というふうに全教員が顧問をする方向に使われる恐れがあるのではと、懸念しています。

 全体練習時間が制限され、協力的な生徒・保護者に囲まれるという環境をお膳立てしたのだから、全教員が顧問をするべきだという世論にすり替わっていくのではないかと懸念しています。それでは、一部の管理職や教員から、顧問をやりたくない教員が圧力を受け、その不満がネットに上がってくるという構図は変わらないのではないでしょうか。

 私は教員が部活動の顧問をするかどうかを選択できるようにと願っています。シンプルに勤務時間を1分でも超える部活動の指導は、法で拒否することが保障されていると訴えるほうがいいのかなと、考えています。

 私個人が教員が顧問をする・しないの選択権を保障されるべきと考えている理由のひとつには、全員顧問制や長時間労働による教員の不満は限界に達していて、その負の感情が子どものスポーツ活動の存在そのものに向けられているのではという被害妄想を持っているからでもあります。

 来年、私のやりたいことで、できることは何なのか。考えて、取材して、記事にしたいと思います。

 皆様、よいお年をお迎えくだいませ。来年もどうぞごひいきに。