PTA 部活動顧問が完全に任意、自主的な活動になったら

学校へ通う子どもの保護者にとって、PTAの仕事はときに重荷になる。

はっきりと子どもや学校の役に立っていると感じられるのならば、やりがいもあるのだけど、前年通りにつつがなくこなすためだけに、役割分担表や当番表を作り、また、いったん役割や当番を任されたならば、それを何が何でもやり遂げないといけない雰囲気にもなる。重荷です。

PTAが名実ともに任意加入になったら、どれだけ気が楽か。と私も思う。

やりたい人がやれる範囲でやればいい。

今、学校運動部の顧問をしている教員の負担も問題になっている。

ツイッターなどで見るところによると、慣習的に全教員が何らかの顧問をしなければいけないようになっており、「顧問をしたくない」と発言することはとても難しいことだという。

私は部活動の顧問もできる先生、やりたい先生がやってくだされば有難いし、先生の事情(体調、家庭、考え方も含めて)でやりなくないときは無理に押し付ける性質のものではないと思っている。

さて、ここから本題。

もし、PTA加入が完全に保護者の任意になり、部活動の顧問をするかどうかも先生に実質的に選択権が与えられれば、私としてはこれほどうれしいことはない。

かなりの人たちが重荷、負担から解放されるはずだ。

とすると、その人たちが支えていた分だけ、一時的にPTA活動や部活動が停滞したり、衰退する可能性もある。それは仕方ない。

やらないという選択肢がないためにやっていた人たちが抜けることで、どのくらい停滞、衰退するかは分からないけども、今まで無理にでも支えてきてくれた人たちの大きさを思い知らされるかもしれない。

そうすると、地域の人、保護者、先生たちの中から、これはよくないと思って

自主的に立つ人が出てくるかもしれない。

そのときには、自主的に立つ人が、PTAを支えるなり、部活動を支えるときに、力を出しやすいように制度を整えておくべきだと思う。自発的に学校や子どもの活動に関わろうという人たちの法的責任、仕事の内容などを制度として整えておくべきだと思う。そして、また、それが当番制や全員同じだけの負担しなければいけない方向に逆戻りしないようにその組織内で合意し、世論を形成しておくことも必要な気がする。

本当に自主的に立ってくれた人たちは、「タダの労働力」ではなく、社会や地域の市民という名の貴重な資本でもある。

何年後に、PTAが完全に任意加入になり、先生方に部活動顧問をするかの選択権が本当に与えられるのかは分からないから、自主的に立つ人が何年後に現れるのかも分からないけど。

もし、PTAに加入するかどうか、顧問をするかどうかが後ろ指をさされることなく、完全に選べるようになったら、自主的に立つ人、自発的に活動を支えようという人が学校と子どもの周りにどれくらいいるか、その人たちの人数と意識によって、いろいろな地域格差が出てくるはずだ。

もし、自発的に活動を支えようという人がどうしても出てこない地域だと、学校と子どもの活動に影響するかもしれない。そのときは、NPOなどが別の地域の能力とやる気のある人をボランティアとして引っ張ってくることができるのか、などの課題も出てくるように思う。

 

長谷川滋利さんと長時間練習の話

もう17年ほど前のことで、記憶があやふやな部分もありますが、

思い出話を書きたいと思います。

たしか1998年のことだったと思います。

長谷川滋利さんがエンゼルスでプレーされていたころの話です。

長谷川さんはご自身には通訳をつけず、できる限りチームに溶け込むように努力されていました。努力というよりも、英語でコミュニケーションをとり、自然とチームになじまれていたようにも思います。

そして、アメリカに来たからにはアメリカのやり方を取り入れようとされているようにも見えました。当時はまだ、日本からメジャーに挑戦していた選手の数も少なく、前例や日本人の先輩もいないなかで、選手もまわりも手探りのことが多かったのです。

ある日、次の日がお休みだったか、どんな日だったか忘れたのですが、「野球から離れる」という話をしていたと思います。

長谷川さんは当時の現役トップだったマダックス投手を引き合いにだし、「マダックスでもずっと野球ばかり考えているのではなく、ゴルフに行く」という話をされました。マダックスでも野球以外のことをしてリラックスしている時間もあるのだから、自分もそのやり方をやってみるというような意味合いだったと思います。(すみません、正確なコメントは言葉遣いが違うかもしれませんが、大意はこのようなものでした)

恐らく長谷川さんだって、日本にいたときは一日中野球のことを考え、長い時間、練習をされてきたはず。

だから、他のメジャーリーガーのようにシーズン中でも頭を切り替えて、少し別のことをすることや、短時間で練習を終わらせることを、長谷川さん自身が取り入れていくにあたって、少し勇気がいるようでした。

少なくとも、そのときの会話から、私は「長谷川投手でも野球から少し離れるということは勇気のいることなのだ」という印象を受けたことを記憶しています。

1998年は私がスポーツ新聞の記者として、日本から米国に取材の拠点を移した年でもありました。当時は私は20代の独身で、日本にいる両親もまだ若く、自分のことだけを考えられる状態で、しかも、長時間労働しないと不安になるので、いつでも早く取材現場に行き、常に仕事のことばかり考えていたように思います。

私自身がそうだったからこそ、長谷川投手が、シーズン中でも、野球からちょっと離れて別のことをしようとしていた様子をよく覚えていたのかもしれません。

長時間練習は一度、定着してしまうと、今度はやらないととても不安にかられるというものなのかもしれません。短い練習に切り替えるということも勇気のいることなのだと、ふとあのときの長谷川投手の様子を思い出しました。

私の思い違いだったらすみません、長谷川さん…

追記 なんで、長時間練習をするんでしょうか。

   やらないとうまくならない。→ 休みも必要

   負けてもやるだけのことをやっていれば納得がいく。

   負けてもやれるだけのことをやっていれば言い訳できる?

   あまり長時間練習しない国のアスリートはどんなふうに考えているんでしょうか。負けても日本人とはちょっと違うところで納得するんでしょうか。これは宿題いします。