非日常のからだと日常のからだ 大人と大人になる人と

 今、メジャーリーグプレーオフの季節だ。長いシーズン戦ってきて、身体は限界に近いが、負けたら終わりの短期決戦だけに痛みとつきあいながらプレーしている選手も少なくない。

 ア・リーグ地区シリーズで、タイガースのトリー・ハンター外野手は試合開始直後の守備で肩を痛めた。試合後に、こんなコメントしている。When adrenaline takes over, that’s your pain reliever. That’s what I did today.”「アドレナリンが鎮痛剤だ」と。

 このハンター外野手は、ア・リーグ優勝決定シリーズ第2戦で、レッドソックスオルティスの本塁打球を追いかけて、頭からフェンスの向こう側に落ちていった選手でもある。レッドソックスブルペンで万歳して喜ぶ地元の警官と逆さまになって足だけがニョッキと出たハンターの写真は、日本のツイッターでも流れていた。

 翌日、ハンターに話を聞いたところ、頭痛など脳震盪が疑われる症状があるというのだが「大丈夫、行ける!」と力強く言う。ハンターは守備の名手として知られる38歳の大ベテラン。まだ、一度もワールドシリーズに出場したことはない…。

 昨年の三冠王で、3年連続首位打者のカブレラも左足付け根を痛めており、100%には程遠い状態。それでも、メジャーリーガーのなかでも並外れた打撃技術の持ち主だけに、プレーオフでも本塁打を打ち、タイムリーヒットを放って、チームの勝ちに大きく貢献している。

 痛みを抱えながらプレーオフを戦っている選手たちは、自分の痛みの閾値を、痛みどめの薬やアドレナリンで意識的に限界まで引き上げ、現在の身体の状態でできるプレーを模索しているように見える。そして、私はハンターやカブレラの心意気を「そうこなくっちゃ」的な感覚で受け止めている。

 でもプロ選手でない、若い人はマネするべきではないと思う。大人であるプロやトップ選手がここぞというときにこそ、一時的に解禁するといった種類のものなのだから。

 平尾さんがミシマガジンに書かれている。http://www.mishimaga.com/chikakute/014.html

痛みの質を見極めようと努力すればいいのだ、と。

 ただちに休まなければならない痛み、軽く動かしながら治癒できる痛み、試合は無理だが練習ならできる痛みなど、微細な違いを感知すべく意識を向ける。我慢するのではなく、積極的に認めつつ見極める。これは身体との対話であり、自らの身体の癖を知るためのひとつの方法だと思う。だから指導者が無理矢理プレーさせるのはまったくのナンセンスだし、痛み止めの注射を打ってプレーするのは、追い込まれたプロスポーツ選手でもないかぎりやめた方がよいと僕は思う。

 これから大人になっていく選手たちは、今、プロ選手やトップ選手のマネをして、あらゆる方法で痛さを紛らわしてプレーするよりも、痛みの質を見極めるトレーニングをするほうが大切なのではないかな。

 いつの日か、プロになって、代表選手になって、故障を抱えて大舞台のビッグゲームでプレーすることになったとき、どこまで痛みどめを使うか、どのくらいの痛さだったら試合できるのか、選手生命に数回しかないであろう決断を下すときの支えになるような気がする。(その他大勢のプロにならない人たちの人生にも活きてくるような気もする)

 ちょっとここから話がかわります。

 それから、平尾さんはツイッターでこういうつぶやきもされた。

 むしろ「痛みを押しての出場」よりも「痛みを鑑みて出場を取りやめる」方が困難な決断なのです。

 この一文を読んだとき、最近、見た「The smartest team」というドキュメントを思い出した。

 これは米国のある高校のアメリカンフットボール部が勝利を目指しながらも、いかにして脳震盪やスポーツ障害を減らすことができるかに取り組んでいる様子をレポートしたものである。

 映像の終盤に、脳震盪による深刻な後遺症を引き起こす恐れがあるとして、高校生でありながら、引退を余儀なくされた少年が出てくる。

 彼は父親もフットボールの選手で、小さいときからフットボールだけを考えていた少年のようだった。「応援役にまわるのはつらい」とうつむき加減に答えていた。その彼が応援している姿も紹介されていた。

 メジャーリーガーの、ハンターやカブレラのケガを押してのプレーを、私は胸の上あたりで「そうこなくっちゃ」と受け止めて、その心意気を肯定的にとらえている。見ているだけの者も、非日常的な盛り上がりの刺激を求めて乗っかていく。他のことは試合の外にいったん、ほっぽり出すという感覚だ。

 一方、この引退を決めた少年の映像は、お腹の下の方にずしりと響くものだった。「おばちゃん、分かるよ」と言いたかった。40才をちょっと超えた人間は、フットボールをやめてもこれから続いていく彼の日常の暮らしがあることを知っている。もちろん、彼のやるせない気持ちも十分に伝わってきた。(こんなおばちゃんに分かってもらっても、なんぼのもんでもないやろうけど)

 大学時代に指導を受けたスポーツ医学の先生は「引退後の日常生活に支障がでない」ことを基準にされて、治療にあたっていらっしゃたし、私たちにもそう指導された。全力で短距離を走る、全力でボールを投げるといった非日常的な動きは以前と同じようにできないかもしれないが、日常生活には問題がないようにと。

 プロ選手のけがについては、もうちょっと書きたいことがある。仕事として非日常の興奮を提供している彼ら、彼女ら。プロのアスリートの身体にも日常はある。でも、今日はここまで。