女子マネージャーの誕生とメディア 感想文2 ゲイと女子マネ

少し間が空いてしまいましたが、『女子マネージャーの誕生とメディア』(高井昌吏・ミネルヴァ書房)の感想文に戻りたいと思います。

 感想文1では、主に女子マネージャーがどのように誕生したか、この本を読んで、新しく知ったことを書きました。

私は女子マネのことが知りたくて、この本を買い求めて読んだのですが、

11ページ目の時点で、男性スポーツ集団に入っていくゲイ選手のことが頭に浮かびました。「ホモソーシャル」という言葉が出てきます。

男性のスポーツ集団というのは、男同士の絆をことさら強調するホモソーシャルな集団でもあるのです。

男性同士の絆というものは常に女性を排除するところにみられ、それは女性嫌悪(ミソジニー)と呼ばれている。しかし、男性集団はあくまで「ホモソーシャル」であって、「ホモセクシャル」であってはならない。

 この本によると、女子マネジャーは女同士の関係によいイメージを持っていない人が多く、特定の男子選手や男子部員への恋愛感情というよりは、男同士の絆「ホモソーシャルな集団」にひかれていると。私は、あまり読んだことないけど、少女漫画に出てくる男子スポーツってこんな感じが出ているかもしれませんね。

 女子マネと男子選手たちは「男性と女性」ではなく、「男性集団と女性」という図式であるとされています。

 女子マネは確かに男子運動部の一員ではありますが、ホモソーシャルな集団の一員になることができません。運動部の一員としてその集団に深くかかわりたいけども、その集団に完全に入ることはできないのです。異性である自分がホモソーシャル集団に完全に入り込むと、それはもう、女子マネ自身が憧れる「ホモソーシャルな集団」ではなくなります。だからこそ、境界ではじき返されるという関係が女子マネの物語になっているのだと思います。

 ここで初めて私は男性集団に入っていくゲイの選手のことを考えました。

 私は今まで同性愛の選手が自身が同性愛であることを告白し、男子スポーツ集団に入っていくことについて「性によって機会に差をつけることはよくない。他の選手やファンも受け入れるべきだし、告白した選手には頑張ってほしい」ということしか考えてなかったのです。

 スポーツではロッカールームを共有するため、ヘテロセクシャルな選手が、ゲイである選手から性的対象として見られることを恐れたり、不快に感じたりするから、歓迎されてないのかな、ぐらいにしか考えてなかったです。

 今年はミズーリ大のDEマイケル・サムがNFLのドラフト前にゲイであることを告白しています。

ゲイを告白したアメフト最優秀選手、マイケル・サム。苦難の道のりで発した言葉

 特にアメリカンフットボールは他に比べてより強い「ホモソーシャルな集団」だと思います。体の大きさ、強さ、速さを競う面が強く、ほとんどのアメリカ人にとってはアメリカンフットボールは最も男性的なスポーツであります。

男性の集団スポーツは、ホモソーシャルな集団であるがゆえに、女性を排除し、同性愛者を排除するんですね。スポーツの世界における同性愛嫌悪を調べた研究はいくつもあって、ロッカールームの会話分析やファンの野次から分析されているものがあるよう。イギリスラグビークラブのなかで伝統的に歌われている歌を同性愛嫌悪という視点から分析したものなども。

男同士の絆は、女性と同性愛者を排除することによって、これまで物語として成立してきたのです。そういう男同士の絆とスポーツの物語に、男性ファン、女性ファン、女子マネがひかれていたことも事実。

女子マネは「ホモソーシャル集団」の境界にいて、入ろうとしても入れない。それが「女子マネ」とは何であるかという物語にもなっている。

同性愛を告白した選手は「ホモソーシャル集団」の境界を飛び越えていこうとしている。そのときに紡ぎだされる物語とはどのようなものなのか。

ホモソーシャル集団に入っていく同性愛選手。女性も同性愛者もいない男同士の絆の物語だけでは、語ることのできなくなったゲイ選手を含んだ選手の集団をどう捉えるのか。

かなり大げさな言い方になってしまいますが、新しく生まれてくる物語のその内容次第によっては、日本の高校スポーツの女子マネジャーにとっても、影響があるんじゃないかと思います。

日本のプロの男子スポーツでも同性愛を告白する選手が出てきて、それを社会が受け入れられる状態になったとき、男だけの絆はどう変わっていくのか。

「ホモソーシャル集団」への憧れが成り立たなくなっても、女子マネは存在しうるのか。そういう疑問が浮かんできました。